【天下一茶陶会 開幕】
戦国時代に「茶の湯」が流行したことは、多くの人が知っているだろう。
しかし、その中で「何が行われていたか」を正しく知る人は、実はほとんどいないのが実態である。
今の世の中で「茶の湯」のイメージと言えば、お茶碗を回したり、茶菓子を取り分けたり、様々な作法や所作を身に着けたりと、どちらかと言えば「お茶を飲むため」の儀式や様式を思い浮かべる人が圧倒的に多いことだろう。
だが、茶の湯について戦国時代の一時資料や事実を良く調べてみると、上記のイメージとは大きくかけ離れた『本当の姿』が見えてくるのだ。
引用になるが、その様子を伺える資料や文献を紹介していこう。
まずは、安土・桃山時代の日本に渡来し、実際に茶の湯に招かれた宣教師ルイス・フロイスが記した日記、通称「フロイス日本史」から見て(引用して)いく。
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『私(フロイス)は日比屋了珪(洗礼名ディオゴ)に、明日出かけたいと申しました。彼(ディオゴ)は答えて、私がもうそのように決心しているのなら致し方なく、まず自分が所持している幾つかの財宝をお見せしよう、と言いました。
身分ある富裕な日本人のもとでは、大いに好意を示そうとする来客がある場合には、別離に際して、親愛の証として自ら所蔵する財宝を見せる習慣があるのです。それらは、彼らがある粉末にした草を飲むために用いるすべての茶碗とそれに必要とする道具です。それは茶と呼ばれ・・・』
(完訳フロイス日本史1から引用、()内注釈は当館追記)
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この日記には、戦国時代の外国人が見た当時の茶の湯の印象が明確に表現されている。
すなわち、戦国時代の日本人(堺商人ら≒茶人達)は、心を許した友人にその親愛の証として、お茶を飲んでいただくことで“おもてなし”をしていたのでなく、「茶道具=財宝を披露」することで“おもてなし”をしていたのだ。
次に、千利休とほぼ同時期を生きた利休の弟子、山上宗二が記した「山上宗二記」の概要を紹介(引用)する。
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『山上宗二記』とは、利休の弟子山上宗二が書いた利休時代の名物道具212点の所在リストである。
・・・一言で言えば、千利休時代に「これこそ最高の茶道具である」と太鼓判が捺された名物の所在一覧(名物リスト)、すなわち、名物記です。
(山上宗二記 竹内順一著から引用、・・・間略箇所)
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山上宗二は、千利休と同じ堺商人で、利休の茶の湯の弟子として有名な茶人である。
そんな山上宗二が記した、当時の「茶の湯の秘伝書」に書かれている内容は、お茶を飲む作法や方法ではなく、それらを扱う「道具」のランキングリストなのである。
またその他の書籍でも、例えば「お茶と権力(田中仙堂著)」では戦国時代の茶会について、
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戦国時代の茶会とは、「茶道具鑑賞を目的に、招かれた人たちのみが集まることができる会合」だった。
(お茶と権力 文藝春秋、P58から引用)
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と解説し、その会合(茶会)に参加できる「招かれた人たち」の条件として、
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この時代の「茶に関する教養」といえば、「どういう茶入が名物でそれを今、誰が持っているか」という知識を筆頭に挙げなければいけない。そのことを知らなければ名物を見せてもらいに行くことができない。
(お茶と権力 文藝春秋、P53から引用)
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と説明している。
つまり、戦国時代の茶会の真の目的は、お茶を飲んで会合することではなく、ずばり「名物と言われている道具を見せてもらいにいくこと」であり、また「自分が持っている名物道具を見ていただくこと」だったのである。
これが戦国時代の茶の湯の真相なのだ。
【戦国の茶の本質は】
織田信長が、天下統一のために全国へ兵を繰り出す中で、「名物狩り」と称されるほど多くの茶道具を収集し、それらを戦の報酬として配下の武将たちに分け与えた逸話は有名である。
その信長の後に天下統一を果たした豊臣秀吉も、「北野大茶湯」や「禁中茶会」などの大茶会を開催し、自分が数十年来収集した「名物茶道具」を一堂に披露した。
その秀吉が千利休に切腹を命じた理由の一つは、利休が茶道具の売買で暴利を得たからだと言われている。
それ以外にも当時の戦国大名や茶人たちと“茶道具”とにまつわる逸話は、枚挙に暇がない。
それこそ、戦の武功よりも茶の湯の逸話の方が多い武将がいる程である。
戦国時代は、それほど茶の湯が大流行していたのだ。
そして、その中心にあったのは、紛れもなく「茶道具」なのである。
これまでの歴史や美術史で戦国時代の「茶道具」と言えば、あくまでも茶の湯文化の一部として、茶を点てるための道具としてしか評価や調査が為されてこなかったの現実だ。
しかし、改めて当時の一時記録や史実から戦国時代の「茶道具」の価値を再考してみると、美術的価値や文化的価値だけでなく、学術的価値や歴史的価値までをも包括する貴重性を有していることに気付かされることだろう。
なんせ当時の天下人たちが挙って、財産の限りを注ぎ込んで蒐集した「名品」なのである。
どう考えても、そんな品物が当時の“重要な情報”を握っていない筈がないのだ。
「茶の湯は、戦国時代を代弁し、茶道具は、戦国時代を証明する。」
つまり、戦国時代の真実は、「茶道具」にこそ残されているのである。
【450年越の天下一】
現代の茶の湯(茶道)は、茶道具への注目よりも、様式や礼儀作法などの「所作」に重きを置く傾向があるように思える。
しかし、茶の湯の本質は、前述の通りむしろ道具にあるのであり、茶道具を品評することこそが、茶の湯に通ずることであると、今後は認識を改めなければならないだろう。
なぜならばそれこそが、先人たちが行ってきた本当の茶の湯の姿だからだ。
そこから目を反らし続けることは、歴史や茶の湯への冒涜以外の何物でもないのである。
戦国時代の茶人達は、何としてでも茶の湯の名物道具を手に入れ、そしてその茶道具こそがナンバーワンだと、周囲に知らしめたかったのだ。
だとしたら現代の茶の湯でも、それに力を注ぐべき舞台があってもいい筈である。
いやむしろ、今ここで450年の時を越えて大々的に決着すべきなのだ。
・どの茶道具が本当の数寄道具なのかを。
・どの茶道具が本当の名物なのかを。
・どの茶道具が本当の天下一なのかを。
さあ、今こそ決めようではないか、再びナンバーワンを!
天下一茶陶会で!
【天下一茶陶会とは】
ということで、この盛り上がったテンションのままで、戦国時代に実際に使われていた茶道具を一堂にお目見えして、「優勝!準優勝!入選!」と順位付けをしていければ話は早いのだが、現実はそうはいかない。
当たり前の話だが、現代はすでに戦国時代から約450年もの歳月が経過してしまっているのだ。
そのため、当時の茶道具自体が、ほとんど残っていないのである。
さらに戦国時代の茶道具は、作られた当時から高値で取引されていたため、今では贋作や時代相違の品物も多く紛れ込んでしまい、どれが本当の戦国時代の茶道具かどうかですら、判別が付きにくくなってしまっているのだ。
そんな中で、茶道具の年代鑑定や真贋判定をしながら、さらに美術的価値の善し悪しを判断していくためには、一定の評価基準やルールを設ける必要がある。
そこで当館で以下のルールを設けて、それぞれの流行期ごとに茶道具のナンバーワンを決定できる仕組みを考案したので紹介しよう。
【天下一茶陶会の出展ルール】
①戦国時代の茶の湯の流行期に作られた/使われた道具であること
②当該焼き物の使用が茶会記の一時資料で確認できること
③茶陶の年代が一時資料や出土品から判別(鑑定)できること
④類似品や同種同形手と比較して特別注文品(真の一点物)であること
⑤+α 共箱や時代箱書や伝来等の付属があれば尚良し
※戦国時代の茶の湯の流行期は、概ね【第1期:室町期】・【第2期:天正期】・【第3期:慶長期】に大別できる。天下一茶陶会も茶陶の種別や性質上から、この3期に分けて開催する。
天下一茶陶会のルールは単純明快だ。
すなわち、ルールに該当する茶道具(特注品)であれば、どれでもエントリー可能である。
また最初は、エントリーの都合上当館の所蔵品の中からナンバーワンを決めていくが、将来的には対外的なエントリーも大歓迎なので、皆さんもこれぞと思う名品があれば、ぜひともエントリーして欲しい。
【時代判別の根拠】
では、話を戦国時代の茶の湯に戻して、当時実際に使われていた道具を判別できるのか?について考えていこう。
結論から話せば、戦国時代に使われていた茶道具を確定し、それらの年代を推定することは十分可能である。
以下に、その具体的な証拠と方法論を解説しよう。
・「茶会記」
「茶会記」はその名の通り、茶の湯の会で使われた道具や、活けられた花や、出された料理を記録した書である。
戦国時代の茶会記としては、「松屋会記(1533~1650)」「天王寺屋会記(1548-1590)」「宗湛日記(1586-1613)」「今井宗久茶湯日記書抜(1554-1589)」が著名だ。
それらには概ね「いつ、どこで、誰が、誰と、どんな道具を使って茶を飲んだか」が記されているので、基本的に茶会記の表記を調べることで、当時の茶の湯の実態を窺い知ることができる。
以下に、天王寺屋会記の一例を紹介しよう。
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日付:天正9(1581)年1月11日
場所:-
記録主:津田宗及
席主:惟日(明智光秀)
道具:備前水下(備前焼の建水)
日付:天正9(1581)年9月3日
場所:堺
記録主:津田宗及
席主:千宗易(利休)
道具:備前水下(備前焼の建水)
日付:天正10(1582)年11月7日
場所:京都山崎
記録主:津田宗及
席主:羽筑(羽柴秀吉)
道具:備前水下(備前焼の建水)
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この茶会記は、織田信長が討たれた「本能寺の変(1582年)」前後の記録である。
領主の暗殺を目前に控えた光秀は、密室の茶会で何を語ったのだろうか?
また光秀を倒して天下統一のチャンスを手にした秀吉は、どんな気持ちで茶を飲んだのだろうか?
そんな激動の最中で利休は、どんな演出で武将たちをおもてなししたのだろうか?
本能寺の変が起きる前年の明智光秀と千利休(当時はまだ千宗易)の茶会と、本能寺の変の直後の豊臣(羽柴)秀吉の茶会とを分析することで、当時の臨場感や緊張感をも感じることができるのである。
そして、その中で共通して使われた「備前焼の水こぼし(建水)」という記録から、当時の茶の湯道具の流行品や人気産地までもが垣間見れるのだ。
つまり、当時の茶会記を分析すれば、戦国時代の茶会で、誰が実際にどんな茶道具を使っていたのかという情報だけでなく、当時の流行品や貴重品まで分かってしまうのである。
・「名物記」
戦国時代に書かれた一時記録の中で、当時の茶道具や名品を伺い知れるもう一つの資料が「名物記」である。
名物記とは、茶道具や名品の由緒や名称などを解説した書物で、「茶壷は、誰々が持っている〇〇という名前の壺が天下一の名物である。この壺は、足利時代に中国から伝来してきた品で、焼け肌は赤黒く・・・。」のような内容が書かれている。
端的に言えば、当時の茶人達の茶道具に対する美意識や道具観を表現したコレクション集だ。
戦国時代の著名な名物記には、「茶湯道具名寄」・「清玩名物記」・「唐物凡数」・「山上宗二記」・「北野大茶湯記」などがある。
その中でも、「山上宗二記」と「北野大茶湯記」は、特に当時流行していた名物を調べるのにうってつけである。
なぜなら、山上宗二記は、かの千利休の時代の名物を一堂に記した名物記で、北野大茶湯記は、当時の天下人豊臣秀吉の名物コレクションの一覧記だからである。
山上宗二記には、212点もの名物道具が掲載されている。またそれらの目利き(姿形の様子や見分け方、取引価格など)の方法が細かく記されている。
北野大茶湯記には、かの天下人豊臣秀吉の名物コレクションが一覧で記されている。天下人の蒐集物は、戦国時代のトップコレクションと言っても過言ではない。
つまり、それらの二つを中心に調べれば、戦国時代の名物のほとんどを網羅できるのである。
・「発掘出土品」
もう一つ、戦国時代当時に使われた品として、年代を推定できる貴重な材料がある。
それが「発掘出土品」である。
発掘出土品とは、土中や遺跡・歴史的建造物等から発見された品物のことだ。時代を越えて発掘された出土品は、当時の生活や文化をそのまま残している。
日本の出土品の歴史は古く、紀元前は縄文時代の遺物から近現代の埋蔵物に至るまで、実に様々な“歴史の破片”が出土する。
それらを詳しく調査することで、作られた年代や使われた時代が推測できるのである。
例えば大阪城の壕跡から出土した焼き物は、1614-15年の大阪の陣の際に埋められた品と判別できるといった具合だ。
ちなみに、戦国時代の茶道具の出土品は、それらが作られた窯跡だけでなく、消費地の京都や大阪や堺等で発掘されることが多い。
それらの出土品を調べるだけでも、茶の湯の流行や文化の伝播を伺い知れるのが面白い。
【流行と時代区分】
さあ、これで戦国時代の茶道具が判別できるので、後は時代区分別にそれらを区分して、それぞれナンバーワンを決めていこう。
ここでなぜ時代区分を設けるかということだが、それは戦国時代の茶の湯が、足掛け50年以上に渡って流行が続いているからである。
それだけの期間流行が続いていれば、流行や作法だけなくプレイヤー自体も入れ替わってしまっている。だから、それらの時流に併せて時代区分を設けることが、茶道具の善し悪しを公平に評価する上では必須なのである。
そこで、当時の茶人や茶の湯に使用した道具の変遷から、戦国時代の茶の湯の流行期を以下の3つに区分した。
1:室町期
唐物絶対主義の茶の湯の時代。足利将軍家由来の道具(唐物などの舶来品が中心)が最も価値があると考えられていた。侘茶の創始者である村田珠光や千利休の師匠の武野紹鷗らの美意識が流行を形成。影響を受けた著名な武将茶人は松永久秀、荒木村重、織田信長など。
2:天正期
千利休が大成した侘び茶の時代。室町期の茶道具の流行を踏襲しつつ、茶道具以外の物を茶道具に「見立て」て取り入れる創作が流行した。国焼では、備前焼、信楽焼、瀬戸焼が使われた。主な茶人は、豊臣秀吉、千利休、神谷宗湛など。
3:慶長期
利休、秀吉没後から大阪夏の陣頃までの創作茶陶全盛期の時代。関ヶ原合戦を経て江戸幕末が成立し、戦国時代が終焉したため、茶の湯や茶道具の流行が大きく変わった。具体的には、朝鮮出兵で連れ帰ってきた朝鮮人陶工の技術を取り入れて新しい焼物が一気に茶会を席捲した。主な茶人は、古田織部、細川忠興、有来新兵衛など。
それではいよいよ、戦国時代の茶道具のナンバーワンを決める「第一回 天下一茶陶会」の幕を開き、新しい古美術の時代を切り開いていこう!
以上 第一回 天下一茶陶会 慶長編へ続く