
【天下一茶陶会 桃山】
“日本の歴史は、塗り替えられていた?”
日本は、世界の他国と比べても、長い歴史と文化を継承している国である。
歴史を振り返れば、実に様々な史上の人物が頭に浮かぶことだろう。
遺跡を巡れば、刻まれた歴史が次々と脳裏に浮かんで来るだろう。
美術館や博物館で、伝世品や遺品を眺めれば、当時の人々の息吹が聞こえて来るだろう。
しかし、その歴史が、途中で恣意的に塗り替えられていとしたら?
そして、日本の本当の歴史の真実が、闇に葬り去られていたとしたら?
実は、我々が現代から見ている歴史は「作られた世界」であり、真実を映した姿ではないのである。
だからこそ、これからの日本人は、これまでの日本の、本当の歴史を理解し、取り戻さなければならないのだ。
なぜならば、その真実の中にこそ、日本人の価値観や美意識が隠されているからである。
唐突にそんなことを言われても、最初は意味も分からず混乱してしまうことだろう。
しかし、これから伝える内容を理解すれば、あなたもきっと、その意味や本物の日本の価値に気付くことだろう。
さあ、今から新しい扉を開いて、歴史の真相を覗いていこう。
あなたは今日、日本の歴史の真相を知る、目撃者になるのだ。

【戦国時代の嘘と真】
塗り替えられた日本の歴史とは、1573年~1600年頃までの安土・桃山時代、すなわち“戦国時代”に纏わる史実のことである。
織田信長や豊臣秀吉が躍動した戦国時代には、千利休が大成した「茶の湯」が一大ブームとなり、日本中の大名や武将たちが夢中になっていた。
その中で使われる茶道具は、一国以上もの価値を持つと評価される名物もあり、戦の褒美として、土地や金銀よりも重宝されていたケースもあったのである。
そんな高価な品物だったからこそ、当時だけでなく現在においても、戦国時代の茶道具は、とても貴重な文化財として大事に扱われているのだ。
中には、国宝や重要文化財に指定されている器も存在している程である。
しかし、最新の発掘調査や歴史検証の結果、現在の日本で“戦国時代の名物茶道具”と考えられている器のほとんどが、実は安土・桃山時代には存在していなかったことが判明したのだ。
つまり、信長や秀吉や利休が愛用していた、本当の戦国時代の茶道具とは程遠い謎の器を、現代人は美術館や博物館で崇めてしまっているのである。
しかも、それらの事実が判明した以降も、専門家や研究者たちは本当の真実を隠蔽し続けており、過去の過ちを正そうとしていないのが現状なのだ。
このままでは、日本の歴史は捏造され、文化は冒涜されたまま、将来に渡って事実が覆い隠されてしまう恐れがあると、はっきり言えよう。
だからこそ、今ここで本当の真実を公開し、本物の名物茶道具を明らかにしておかねばならないのである。

【戦国時代の焼き物】
戦国時代を制した天下人豊臣秀吉が、愛してやまなかった焼き物があった。
“備前焼”である。
当時の一次記録では「ひせん・ひせんもの」との表記で確認できるが、現在も多くの焼き物好きに愛用されている備前焼は、安土・桃山時代においては、日本を代表する「官窯」と言っても過言ではない程、重宝されていたのだ。
当時の茶会記を見てみると、明智光秀・黒田官兵衛・古田織部・織田有楽斎・荒木村重・小堀遠州などの大名武将らや、千利休・津田宗及・今井宗久・山上宗二などの茶人達が、挙って備前焼の茶道具を愛用していたことが分かる。
もちろん備前焼以外の焼き物も茶会記には登場するが、その使用回数や頻度は、備前焼が圧倒的である。
また戦国時代の遺跡や城跡からも、備前焼の大甕や徳利や壺が多数出土している。
例えば、1573年に織田信長によって滅ぼされた朝倉氏の本拠地である一乗谷遺跡や、1585年に豊臣秀吉によって焼討された根来寺の跡地からは、当時の姿形を残したままの備前焼が掘り起こされている。
それ以外にも、大阪城跡、堺環濠遺跡、京都の街中などから備前焼が多数出てくるため、当時の日本人には馴染みの深い、全国的に広く使われていた器であったことが分かっているのだ。
そしてその中でも、特に備前焼を愛し執着していたと考えられるのが、「天下人豊臣秀吉」なのである。

【天下人秀吉と備前焼】
豊臣秀吉と備前焼との関係性は、切っても切れない程深く交わり合っている。
詳しくは後述するが、その史実をいくつか紹介しよう。
秀吉は、1582年の中国大返しで明智光秀を劇的に討ち取った後に、利休や今井宗久、津田宗及などの堺衆を集めて、戦勝の地山崎で茶会を開催しているが、その晴れの舞台で備前焼の建水を使った記録が、津田宗及が記した茶会記(天王寺屋会記)に残っているのだ。
更に秀吉は、九州征伐時に滞在した博多の地で備前焼の水指の名品を自ら発掘して“博多”と命名したり、その後九州平定を成し遂げた際には、北野天満宮の境内で北野大茶湯を開催し、自慢の茶道具コレクションを披露し、それを使って茶を振る舞ったりしているが、そのコレクションの中で日本産の焼き物は、備前焼だけである。
また秀吉は、1598年に伏見城で死去するが、その際に埋葬に選ばれた棺桶は、備前焼の大甕(ひねりつちと刻まれた素焼きの大甕)であり、今もその中で眠り続けているのだ。
それ以外にも、戦で敵を滅ぼした後には、相手方が所有していた備前焼の大甕を破壊させた(ろう城させないため)り、備前焼を焼くための窯の数を制限させたりといった伝承も残っている。
それほど秀吉は、備前焼に馴染みの深い人物だったのである。
言うまでもなく秀吉は、時の天下人だ。
そんな人物が愛してやまない備前焼は、戦国時代の日本の官窯と言われても過言ではない程、重宝された焼き物であった。

【偽りの歴史の正体】
それにもかかわらず、なぜ現代の世の中では、備前焼が戦国時代に重宝された焼き物として認識されていないのだろうか?
その答えにこそ、日本の歴史改ざんの“闇”が隠されているのだ。
なぜならば、戦国時代には存在すらしていなかった「器」を、後世の人間があたかも当時存在し、大切に扱われてきた焼き物かのように、偽造して作り出してしまったからである。
そして、その正体こそ「志野」や「織部」と呼ばれる美濃系の焼き物なのだ。
“志野茶碗”と言えば、今の世では国宝に指定されている焼き物であり、その歴史的背景は、千利休や豊臣秀吉や織田信長が愛した茶道具として、美術館や博物館やメディアでも解説されている程著名な器として認知されている。
しかし、最新の発掘調査資料や考古学的研究では、それを含む織部焼や唐津焼や楽焼などの茶陶は、秀吉が亡くなる1598(慶長3)年以前の地層からは、出土してこない事実が判明しているのだ。
つまり、秀吉や利休や信長は、それらの焼き物を茶の湯で使うどころか、存在すら知らなかったというのが事実なのである。
戦国時代の焼き物(茶道具)と言えば、それ一つで国が買えてしまったり、戦の褒美になってしまったりするほど、高価な存在だったのは周知の通りだろう。
しかし、今の世の中でそう思われている焼き物が、当時全く存在していなかった虚偽の器だったとしたならば、まるで事情は変わってきてしまう。
構成の人間の思惑によって、本当に重宝された器の存在がかき消され、自分たちの都合のいい偽物を奉るように仕立て上げられてしまったのだ。

【真実を正す意義】
では、いよいよ本題に切り込んでいこう。
これまでに見てきた時代資料や最新の研究成果によって、戦国時代の焼き物は、現代の歴史解釈とは掛け離れた実態がある事は、概ね理解できたと思う。
それでは次は、世の中に溢れている「伝世品」から、本当に安土・桃山時代に使われていたであろう器を見極める方法を伝達していこう。
まず安土桃山時代とは、一般的には織田信長が足利義昭を京から追放した1573年から、徳川家康が征夷大将軍になる1603年(もしくは関ヶ原合戦までの1600年)までの時代を表す。
しかしこれが美術史となると、大阪の陣で豊臣家(羽柴宗家)が滅びた1615年だとか、寛永時代頃までを含むなどとの誇大解釈がされてしまっているのだ。
この主因は今まで見てきた通り、考古学や発掘調査では出てこない「江戸時代以降」の焼き物を、無理やり安土・桃山時代に捻じ込みたいが為の詭弁であり、日本の歴史や文化に対する冒涜行為に他ならないのである。
そして今では、その悪事に古物商だけでなく、骨董・古美術メディアや美術館・博物館までもが乗っかって、日本の文化財をめちゃくちゃに破壊しているのが現状なのだ。
このような悪行を蔓延らせないためにも、数奇者や愛好家がその流れをどこかで止めなければならないのである。
だからこそ我々は、歴史の真実や文化財の正しい鑑定方法を公開しているのだ。

【武士の茶の湯】
そもそも武士が茶の湯に興じたのは、室町時代の足利将軍家が始まりと言われている。
彼らは、公家や貴族達に劣らない武士の文化として茶の湯を採用し、その中で当時珍しがられていた海外からの舶来品や渡来品(主に唐物)を、名物として茶道具に取り入れて、文化的にも対等に渡り合おうとしたのだ。
その一例が、絶世の美女楊貴妃が愛用したと伝わる天下一の茶入「初花」や、宇宙のような模様が神秘的な「天目茶碗」や「書画」など、主に明国との貿易で日本に齎された唐物の焼き物であった。
その後、応仁の乱の発生で世の中が荒廃し、室町幕府の力が衰えてくると、やがてそれらの名品たちは、侘び茶文化を生み出した堺商人らに引き継がれ、そして名物狩りによって織田信長の手に渡ったのだ。
織田信長は、室町幕府が生み出した茶の湯の文化と名物の価値に目を付け、それを武家社会の政治的な支配道具として取り入れていった。具体的には、茶会を開催できる権利や、茶道具自体を戦の褒賞とすることで、配下の武将や周囲の大名達に名物の価値を知らしめたのである。
さらに信長は、戦の敵方にも、茶道具を差し出せば裏切りを許したり、命を保証したりと、交渉の材料としても茶道具を活用していたことが分かっている。
また、かの有名な本能寺の変の前夜のこと。
信長は、公家衆や豪商らを本能寺に集めて茶会を開催し、自慢の茶道具を披露していた。信長の最後の瞬間を見守っていたのは、味方でも敵でもなく、茶道具だったのだ。
その信長の後を継いで、天下統一を果たした豊臣秀吉も、茶道具の価値を大いに利用した人物だ。そして、それらの天下人の傍で茶の湯の手ほどきをしていたのが、千利休ら堺商人だったのである。

【秀吉が愛した名品】
茶の湯文化がピークを迎えたのは、豊臣秀吉の時代である。
その時代に本当に重宝されていた名物とは、一体どんな品物だったのか?
その答えを窺い知れるのが、時代の証拠になる「当時の一時記録」である。
今回は、九州征伐を成し遂げ、全国統一を目前に控えた1587年11月に行われた、秀吉の名物コレクション展「北野大茶湯」から、実際に使われた名物道具を抽出して考察してみたい。
北野大茶湯とは、秀吉が九州征伐の勝利と聚楽第の造成を記念して、京都北野天満宮境内で開催したと伝わる茶会で、その場で披露された豊臣秀吉の茶道具コレクションは、各大名や豪商達から献上された、当時最大規模の名物道具集であった。
つまり、戦国時代に最も評価されていた正真正銘の本物の名物茶道具コレクションと言っても過言では無いだろう。
そして、その中に含まれていた「国産の茶道具」とは?
・飾席(東)
「①紹鴎備前水飜(武野紹鴎旧蔵)」
・豊臣秀吉茶席
「②備前花入(筒・武野紹鴎旧蔵)」
・津田宗及茶席
「③備前水指」
上記の3点、なんと「備前焼」だけなのである。
戦国時代の茶の湯の場で、本当に重宝され、使われていた国産茶道具(桃山茶陶)は「備前焼」だったのだ。
これが歴史の真実。
天下人の茶の湯の本当の姿なのである。

【山上宗二記の名物】
山上宗二と言えば、戦国時代の堺商人で、千利休の弟子の一人である。
安土・桃山時代に、持て囃されていた名物茶道具を一覧で表した書「山上宗二記」を記した茶人として有名であるが、今回はその記録から、実際に戦国時代で流行していた茶の湯の道具を考察してみよう。
・水指
武野紹鴎所持の信楽水指
千利休所持の信楽水指
辻玄哉旧蔵の信楽鬼桶水指
・水翻
武野紹鴎旧蔵の備前物の面桶
万代屋宗安所持の備前物の瓶の蓋
天王寺屋宗及所持備前合子
これらはいずれも「数寄道具」
・侘花入
武野紹鴎旧蔵の備前筒・・・本能寺の変で火中、滅失
備前物の竹の子・・・千利休が掘り出し今は石橋良叱が所持
このように、国産の茶陶では、「信楽焼」と「備前焼」が出てくるのが確認できる。
こちらの一次記録でも、戦国時代の当時使われていたのは、焼き締めの器だったのだ。
ちなみに「信楽焼と備前焼」は、侘び茶の祖と言われる村田珠光時代(室町後期)から、「ひゑかるると申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なともちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也」と言われるほど、使われ続けてきた器だ。
すなわち、初心者が「侘び」を演じて、備前や信楽などの器を用いて茶の湯を行うのは間違いだと珠光が諭した内容だが、それほど当時の茶の湯では、備前と信楽は重宝された焼き物だと分かるのである。
ちなみに信楽焼は、織田信長が台頭してくる安土・桃山時代頃になると、徐々に茶会記から姿を消して行ってしまうが、一方の備前焼は、次々と著名な茶人に採用されていく。
このように、本当の歴史で使われてきた器は、どの一次記録から調べてみても、確かな証拠に辿り着くのだ。
そして、その全てに「備前焼」の影が投影されているのである。

【戦国時代の出土品】
これまで紹介してきた一次資料を見る限り、戦国時代の茶の湯で使われていた国産の焼き物は、いわゆる「焼き締めの器」が主流であることが分かっただろう。
次はその証拠を追認し、より信頼度を高めるために、当時の発掘品や出土資料から戦国時代の焼き物について考察していこう。
なぜならば、日本はその歴史上、全国各地から昔の遺跡や発掘品が多数出土するが、その中でも当時の姿のまま埋没されていたり、残っていたりする史跡があるからだ。
例えば戦国時代頃の遺跡では、一乗谷朝倉氏遺跡や根来寺跡や大阪城跡、そして京三条せと物や町などが該当する。
それらの中で、特に注目すべき出土品は以下の通りである。
・備前焼の大甕が多数出土
→根来寺:1585年焼失(数千点もの大甕が発掘、それ以外に酒器なども)
→大阪城:1583年築城、1598年改築、1615年焼失(堀埋没)
→博多遺跡群など:当時の豪商たちの活動エリア
・備前焼の徳利(容器)が出土
→根来寺(焼け跡から出土)
→福田片岡遺跡(室町期の交通の要所)
・備前焼の茶道具が出土
→一乗谷朝倉氏遺跡:1573年織田信長により焼失(水甕、花入)
→京三条せと物や町:1600年頃から発展(備前以外も織部等の茶陶多数出土)
それぞれの発掘出土品の詳細についてはここでは割愛(後述で引用先を紹介)させていただくが、当館の解説動画でも紹介しているので、ぜひとも実物をご覧になっていただきたい。
結論を申し上げれば、室町後期から安土・桃山時代と考えられる発掘出土品の中には、必ずと言っていいほど「備前焼」が出土するのである。
まさに備前焼は、茶の湯の道具だけでなく、当時の生活や文化に密接に関わる焼き物なのだ。
そして一方で、現在国宝や重要文化財に指定されている他産地の焼き物が一切出土しない事実が全てを物語っていると言えよう。

【天下人と備前茶陶】
戦国時代の天下人、豊臣秀吉と「備前焼」との関係性を、当時の茶会記の記録から考察してみよう。
以下が、(記録上に残っている)豊臣秀吉が茶会で備前焼を使った記録である。
1582年11月7日山崎 備前水下
1587年1月3日大阪 柄杓指備前物
1587年10月1日北野 紹鴎水こほし
1587年10月1日北野 御花入ひせん筒
1587年10月14日京都 水指ハ備前物也、博多ニテホリ出(通称「博多水指」)
注目すべきは、本能寺の変の約半年後に山崎の地で行われた茶会で、すでに備前焼の建水(水下)を使っていた点である。
やはり秀吉は、備中高松城攻めを行なっていた中国方面軍の大将時には、すでに備前焼の魅力を熟知していたのだろう。
その後も死ぬまで(ある意味死後も)一貫して備前焼を使い続けていることから、余程愛着があったと考えられよう。
そしてもう一つ面白いのが、1587年の大阪での茶会で備前焼の「柄杓」を使っている点だ。
柄杓は、茶釜の湯を茶碗へ移すシーンなどで使われるが、その道具に備前焼製を用いた理由は、「備前焼と水」との相性の良さが周知されていたからか、はたまた秀吉自身が備前焼をブランディングしようとしていたのか、想像が掻き立てられる演出である。
また、明治時代に行われた補修工事の際に、天下人豊臣秀吉の棺が誤って掘り出された事件があった。
その棺は、当時の慣習から鑑みれば非常に珍しく、胴部に「ひねりつち」と彫られた、直径1メートル程の高さの素焼きの大甕で、秀吉の遺体は、その甕の中で掌と足を組んで座った形で納められていたと伝わっている。
資料では、棺についてそれ以上詳しく言及されていないが、戦場で突然死した訳でもない天下人を納めるほどの棺であれば、普段使いの生活容器を代用したとは考えにくく、予め用意されていたか、もしくは秀吉自身がそのような埋葬方法を希望したと想定するのが自然だろう。
そしてその焼き物とは、もちろん「備前焼」である。
つまり、秀吉の備前焼に対する愛着は、それ程大きかったと言えるのである。
天下人クラスの為政者が、これ程まで愛し、執着した焼き物は、史上でも備前焼以外には存在しないだろう。
隣国の中国では、皇帝や宮廷用に作られた政府直属の陶磁器を“官窯”と呼んでいるが、まさに備前焼は、戦国時代の天下人豊臣秀吉の官窯だったと言えよう。

【千利休「花は野にあるように」は、備前焼以外では成立しない】
「花は野にあるように。」
とは、千利休が、茶の湯の本質を弟子たちに問われた際に答えた格言(利休七則)の一つとしてよく知られているが、実は、この本当の意味を理解するには、戦国時代の「備前焼」を知っていなければならないのである。
この格言は、自然の中にあるがままに花を生けよ、との教訓であるが、これを言葉通りに受け取って、季節の野草を錆びれた花瓶に入れましたでは、ただの野暮だからである。
なぜならば、茶人は、茶室に生ける花を選ぶ前にまず、茶室の中に「野」を表現しなければいけないからだ。
では、何を「野」に見立てれば、茶室の中にそれを表現できるのだろうか?
野とは、自然の大地=土のことである。
かと言って言葉通りに、実際の土を茶室に運んで花を植えても、ただの迷惑だろう。
茶道具には、花入という立派な道具があるからだ。
それでは、どんな花入ならば、「土」を表現できたのだろうか?
実は当時の日本人は、その答えを、土のような機能を持った器を、よく知っていたのだ。
そう、水が腐らぬと言われた「備前焼」である。
利休の言う「野」とは、まさに「備前焼」のことなのだ。
つまり、茶の湯では、大地に見立てた「備前焼」の中に野の花を添えて初めて、茶室の花が「野にあるよう」になるのである。
利休は、そこに気付いて欲しかったのかもしれない。
いにしえの茶人が遺した言葉は、ただの言葉ではなく、価値観が宿っている。
茶の湯の中で、それらのメッセージをきちんと受け取れなければ、茶の湯に興じる意味や面白さは半減してしまうだろう。
安土桃山(戦国)時代の花入・水指・建水は、備前焼でも良かったのではなく、「備前焼」でなければならなかったのである。
だから、当時の茶人達は挙って備前焼を採用したのだ。

【宇喜多秀家の正体】
生活容器としてだけでなく、茶道具や軍事物資としても重視されていた戦国時代の備前焼。
そんな備前焼の産地である備前一帯を当時おさめていたのは、大名「宇喜多秀家」と伝わっている。
宇喜多秀家と言えば、若くして豊臣政権の五大老に名を連ね、朝鮮出兵の総大将をもつとめた程の戦国大名だ。
しかし、当時の人々に「宇喜多秀家」と尋ねても、誰のことか全く分からないのが実情であろう。
なぜならば、安土・桃山時代に、実際にかの一帯を収めていたのは、「備前宰相・羽柴八郎」だからだ。
「羽柴」と言えば、歴史に詳しい人であれば説明不要かもしれない。
本能寺の変発生直前に先代の父直家を病で亡くし、僅か11歳で当主になった秀家。
当然その若さの秀家には実権はなく、羽柴秀吉を後見人とし、運営を叔父や重臣達による集団管理体制で行うことを信長に許して貰った上での当主就任だったのである。
秀吉のこういった手法は、同じく幼くして養子となった小早川秀秋(木下秀俊・羽柴秀俊)などの事例でも見受けられるが、実子や血縁関係の家臣が少ない秀吉にとっては、伝家の宝刀だったのだろう。
秀吉の養女・豪姫を妻に迎えた秀家は、正式に羽柴(秀吉)一門として歴史に名を残していくのだが、実際の一次資料でも、確認できる署名のほとんどが「羽柴」である事から、秀吉の全国統一よりもかなり前の段階から戦国時代の当時の人々は、秀家のことを「羽柴秀吉の娘婿の八郎」としてみなしていたことが窺い知れるのである。
つまり、備前一帯を支配したとされる「宇喜多秀家」とは、現代人が分かりやすく理解するために付けたニックネームみたいなもので、実際の備前の実情は、織田信長が中国攻めを行っていた頃から「羽柴秀吉」の息が掛かった「お膝元」の一つなのであった。

【天下一の茶陶登場】
天下人が、これほどまでに一つの焼き物に執着していた事実は、現代では全く伝えられていないことである。
それどころか、当時存在すらしていなかった別の焼き物を、あたかも安土・桃山時代の名品かのように嘯き、そして虚偽の事実に基づく歴史を堂々と語り継いでしまっているのだ。
これらの行為は、日本の文化を捏造し、過去を冒涜しているとしか言いようがないだろう。
だからこそ当館が今ここで、これまで書き換えられてきた嘘の歴史に終止符を打ちたいと思う。
当時の一次資料から、現代に残る伝世品を確認し、いよいよ戦国時代の本物の茶道具の正体に迫っていこう。
発掘出土品から戦国時代の焼き物を見分ける -大甕-

根来寺坊院出土 二石入大甕
豊臣秀吉の紀州攻めで焼失した根来寺出土の備前大甕
根来寺は、天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって行われた紀州攻めで焼失した。
根来寺跡地からは、当時の生活で使われていた備前焼が多数出土する。
その中でも特に注目すべきは、数千点もの大甕が出土する点で、これらの中には、食料品や水などの生活物資が保存されていたと考えられている。
安土・桃山時代の備前大甕には、「二石入り・ひねりつち」などの文字が彫り込まれている。
【引用】 全国文化財総覧 『根来寺坊院跡1991』より
https://sitereports.nabunken.go.jp/140932
海を渡り、九州は博多でも備前焼が出土
博多商人が活躍した地面に眠る備前焼大甕
博多遺跡群からは、主に15~16世紀にかけての遺物が出土する。
その中には、前項の根来寺から出土した大甕に類似した備前焼大甕が含まれている。
室町時代から安土桃山時代にかけて、備前焼大甕は、西日本を中心に広く流通していたしてことが分かる。
「水が腐らぬ」との評判から、ろう城戦による立てこもり時にも水の保存容器として重宝されたと考えられており、秀吉は、城を落とすと備前焼の大甕を壊させたと言われている。
歪んだ形の大甕が使われていたであろう形跡も鑑みれて、当時の美意識が伺えるようである。
【引用】全国文化財総覧 『福岡県埋没文化財発掘調査報告書1396:博多』より
https://sitereports.nabunken.go.jp/90412


戦国時代から現代へ:「伝世品」を見る
古陶磁鑑定美術館所蔵の備前焼大甕
備前焼大甕は、戦国時代の生活容器であったため、茶道具に比べて多くの数が焼かれたと推測される。
そのため、状態が良いままで現代まで伝世している作品も相対的に多く残っている。
当館所蔵の備前焼大甕にも、「二石入 捻土也」の刻印が刻まれており、その傍には迫力のある窯印が確認できる。
注文主を表したものか?作者や窯元を表したものか?
当時の生活を想像しただけでも、歴史に思いを馳せられる逸品だ。
発掘出土品から戦国時代の焼き物を見分ける -種壺-

村田珠光の「わび」の境地を投影した種壺
山上宗二が記した名物の景色「壷の胴に遠山有り」
中世時代に交通の要所として栄えた兵庫県の福田片岡遺跡からは、様々な備前焼の種壺が出土する。
その壺には、肩や胴に波状の文様が刻印されていることが分かる。
冷え枯るるその景色からは、村田珠光の「わび」の境地が垣間見えよう。
山上宗二が記した“山上宗二記”の中にも、名物の景色として「壷の胴に遠山有り」との表記が見られるが、これらの種壺のような景色を表したものだろう。
これぞ真の戦国時代の美意識なのである。
【引用】 全国文化財総覧 『福田片岡遺跡』よりhttps://sitereports.nabunken.go.jp/65328
戦国時代のタイムカプセル(壺と出土銭)
戦国時代の暮らしを保存したまま埋没された備前焼壺
岡山県で出土した備前焼壺の中には、大量の銭が納められていた。
戦国時代の人々は、戦が始まると、自らの財産を守るために土中にお金や生活道具を埋めたと言われている。
それらの中には、主人が戻らなかったことで、埋没されたまま時代を超えた遺物があったのだろう。
この壺とお金(銭)は、そんな当時の暮らしを現代まで伝えたタイムカプセルである。
【引用】全国文化財総覧 『赤磐市文化財調査報告6:向山宮岡遺跡・丸田遺跡・中屋遺跡の大量出土銭』よりhttps://sitereports.nabunken.go.jp/4809


わびの美を現代に:「伝世品」を見る
古陶磁鑑定美術館所蔵の備前焼波状文壺
当館が所蔵する備前焼種壺の肩には、二重の波状文(遠山)が刻まれ、胴には大きな窯印が刻印されている。
灰色と赤褐色との色合いが混じり合った焼け肌からは、戦国時代の美意識“冷え枯るるわびの姿”が垣間見えよう。
安土桃山時代の初期の茶道具は、他の用途の道具を採用する「見立て」の文化があった。
この種壺も、生活容器としての用途から、茶道具に見立てられたのだろう。
発掘出土品から戦国時代の伝世品を見分ける -徳利・花入-

土質と焼け肌で分かる同じ時代の器たち
大甕と共通の質感を持つ備前焼徳利(当館所蔵)
蕪徳利と呼ばれる備前徳利は、安土桃山時代~江戸時代の前中期にかけて作られている(伝世品より当館鑑定)。
その中でもこの写真の徳利は、背景の大甕と同じ土質や焼け肌をしており、凡そ同年代頃に作られ、焼かれた初期のものだと推測できる。
当時の武士や茶人・町人たちは、この器の景色を眺めながら何を思ったのだろうか?
厚く重い胴部からは、戦国時代の力強さが伝わってくるようだ。
備前焼徳利:古陶磁鑑定美術館所蔵
土の荒さは時代の荒さ。豪快の中に繊細あり
赤黒い鉄分を含んだ胎土に残る安土桃山時代の息吹
安土桃山時代の備前焼の胎土は、赤黒く焼けた肌に、石爆ぜや鉄分の黒い塊が浮き出ており、それ以降の作品に比べると荒々しい土質で、野武士のような印象を受ける。
しかし、造形や全体の姿形は実に丁寧に仕上げられており、未完成の中にも美しさが際立つ。
窯の中で自然と彩られた、作為のない降り胡麻の黄色が、まるで当時の息吹を伝えているようだ。
これぞ本物の器が持つ立ち振る舞いなのである。
【時代参考資料】根来寺出土備前焼徳利 和歌山県教育委員会より


豪快に刻まれた高台の「窯印」
器に刻まれた戦国時代からのメッセージ
丸形に成型された高台(底部)には、力強く刻まれた「二」と読める窯印が刻印されている。
この窯印は、何を意味し、どのような意図で刻まれたのだろうか?
現代では、その理由を完全に理解することはできないが、残された印からは、当時の人たちの生きた証を読み取ることができる。
窯印は、指紋や筆跡の如く、唯一無二のメッセージとして、我々の心に戦国の生き様を伝えてくれるからである。
戦国時代の茶道具 -茶釜風水指-

戦国時代の茶陶の真実に迫る
茶釜を模した造形に戦国時代の茶人の美意識が宿る
前項の大甕や徳利と、類似する焼け肌や土質を持つ茶陶が当館に伝世している。
この器の造形は、明らかに「茶釜」を模して作られたことが分かる。
釜を釣るための“耳”まで精巧に模倣された作行は、茶人からの注文品だったと推測できよう。
例え茶釜の模倣から始まったしても、見立ての茶道具から特注品の茶陶が生まれた背景には、安土桃山時代の斬新な美意識と意匠性が垣間見えるのである。
出土品と酷似する印で分かる同じ時代の器
高台には、器が生きてきた「時間」が染み込まれる
この茶陶には、大量の古銭を伴って出土した備前焼の壺に刻まれた印に酷似した窯印が高台に刻まれている。
出土品の器の年代は、出土銭の内容や壺の土質や焼け肌から16世紀後半頃と推測されている。
この茶陶も同じ頃の作品であろう。
千利休や豊臣秀吉が存命であった時代である。
本物の茶道具には、無駄な作為など一切ないのだ。
【酷似窯印参考】向山宮岡遺跡・丸田遺跡・中屋遺跡の大量出土銭(を納めた備前焼壺)前々項参照


本物が発する戦国時代の「存在感」
置くだけで空間が引き締まる桃山茶陶の美とは
およそ400年以上もの時を越えた戦国時代の器が、なぜ頃これほどまで現代の茶室に合うのだろうか?
その理由は、時代が変わっても茶人の美意識や価値観の本質は変わらないからである。
先人たちが残した歴史や文化は、彼らの生き様や伝承よりも、当時から使われ、伝え遺されてきた「モノ」にこそ宿っているのだ。
だから本物の伝世品は美しいのである。
戦国時代の茶道具の特注品 -建水・水指-

戦 国時代の一点物。特注品の名物茶陶
備前焼の魅力の全てを凝縮させた「侘び茶」の集大成
茶釜を模した造形の備前焼茶陶は、当時の流行品だったのか比較的多くの伝世品が残っている。
しかし、この器だけは完全な一点物と言っていいだろう。
焼け肌や土質は、同時代の他の作品に類似点を見出せるが、明らかに茶道具として作り出された逸品である。
堂々とした立ち姿に紅蓮の緋襷が映える。
これが本当の安土桃山時代の名物茶陶なのだ。
【所蔵】 古陶磁鑑定美術館
波(山)と印の景色が名品を引き締める
素朴な造りの中に現代でも再現不可能な美を集積
荒い土が混じる胎土からは、戦国時代の力強い素朴さが感じられよう。
そこに「上」の窯印が刻まれることで、器が拡張高く引き締まる。
さらに緩やかな波状紋(遠山)の景色を併せることで、名物茶陶の存在感が完成するのだ。
本物の名品は「飾らず・驕らず・主張せず」の美意識が宿っている。
にもかかわらず、ただ在るだけで、全ての人の眼を惹きつけてしまう。
それこそが桃山時代の茶道具なのだ。


背面を見れば、武士の後姿を彷彿
景色から当時を鑑みる鑑賞の楽しみ
備前焼建水の後ろ姿(背面)の画像である。
余計な造形や作為の無いシンプルな作りだが、その分現代でも決して再現できない戦国の景色だ。
分厚い口造り、荒土の混じり具合、焼けむら、そして全体のバランス・・・。
それらの絶妙な組み合わせが名品を形成しているからだ。
追いかけても追いつかない。
憧れても届かない。
この器の前に建つと、人はただ作品に魅了され立ち尽くすだけなのである。
参考資料:
全国文化財総覧/発掘調査報告書
豊臣石垣コラム Vol.57 / 大阪城豊臣石垣公開プロジェクト
豊臣石垣コラム Vol.31 / 大阪城豊臣石垣公開プロジェクト
古備前焼の年代鑑定 / 古陶磁鑑定美術館著
「天下人が愛した備前焼茶陶」

特別注文品の「証」。内部の窯印。
表面だけでなく、内部にも張り巡らされた「美意識」
この建水の内部(見込み)を覗くと、表面と同じ「上」の窯印を見つけることができる。
窯印は、共同窯で焼かれた多くの器の中から、作者や注文主を見分けるために彫られたと考えられているが、だとしたら、わざわざ目につかない場所に刻む理由はないだろう。
そもそも、類品のない一点物の造形の時点で見間違うこともない。
しかし、だからこそ、この印は特別な意味を持つと考えられるのだ。
「上様専用」の印なのだろうか?
天下人の膝元で愛用された器なのかもしれない。
美意識と歴史が染み込んだ「高台」
緋襷の景色を出すための痕跡が語る意匠性
建水の高台は、荒土とは思えないほど滑らかな土肌をしている。
長年使い込まれて角が取れた土肌からは、歴史の深さを実感させられるだろう。
また貴重なことにこの高台には、緋襷を焼き付けるための「藁」のような痕跡を見て取ることができる。
他の器の中で“入れ子”として焼かれた際にくっつかないようにするための工夫と、襷模様の意匠性を出すための創意とが同時に感じられる稀有な存在である。
つまり、この器は、どの方向・どの角度から見ても、特別な意匠性と完成された当時の美意識を見出すことができるのだ。
これこそが桃山茶陶の神髄なのである。


桃山茶陶を愛玩した人物とは?
「茶会記」に残る使用歴が、当時の人気を証す
安土桃山時代に開かれた茶会の記録は、津田宗及や今井宗久などの茶人が記した“茶会記”の中に残っている。
それらの記録から、備前焼の建水は、豊臣秀吉を筆頭に、明智光秀・黒田官兵衛・千利休・古田織部・織田有楽斎らの大名茶人に愛用されてきたことが分かっている。
この建水は、誰が使い、誰が大事に後世に残したのだろうか?
器の特別な意匠性からは、只者ではない人物が愛玩したオーラが感じられよう。
もしかしたら、この器こそが“天下人の官窯”なのかもしれない。
少なくとも伝世品の中では、最も可能性が高い逸品と言えるだろう。