古備前鑑定書の決定版
古陶磁鑑定美術館の研究成果をまとめた、渾身の一冊!
書籍「古備前焼の年代鑑定」とは?
古備前焼の年代鑑定 あらすじ紹介
【古備前焼の年代鑑定 古陶磁鑑定美術館叢書 あらすじ】
館長指令「幻の桃山茶陶を発見せよ!」
戦国の世は、安土・桃山時代。豊臣秀吉、明智光秀、千利休、古田織部、今井宗久、津田宗及、山上宗二、荒木村重、織田有楽斎、黒田如水、筒井順慶、小堀遠州、金森宗和らの名だたる大名や茶人たちが、挙って愛用した茶道具があった。
「備前焼」である。
当時の茶会記には、備前焼が長年に渡って使われた記録が残っているが、特に織田信長と豊臣秀吉が活躍した天正年間(1573年~1592年)は、「建水」という品目で、圧倒的シェアナンバーワンの人気を誇っていた。
例えば、本能寺の変の前年に、明智光秀が茶会で使った建水は備前焼だし、本能寺の変の後、明智光秀を倒した豊臣秀吉が、山崎の地で開いた茶会で使用した建水も備前焼だ。
まさに古備前建水は、桃山時代の国産茶陶の筆頭格と言える存在だったのだ。
だが実は、桃山時代の備前建水は、公式的には伝来品が未だ見つかっておらず、真の姿形は謎のままというから驚きである。
なぜなら、現代の世の中には、「桃山茶陶」と称される備前焼が、たくさん伝来しているからだ。博物館や美術館、更に図録などを合わせれば、それこそ数百点を超える「備前桃山茶陶」が現存しているのではないだろうか。
それなのに、なぜその中でも代表的存在の「建水」が見つかっていないのだろうか。その答えを探ってみると、近年の発掘調査によって、ある「衝撃の事実」が判明していたのだ。
それはなんと、今まで江戸時代の作品を「桃山茶陶」と間違えてしまっていた、と言うのである。その結果、従来までの年代鑑定の認識が、近年になって大幅修正される事態になってしまったのだ。
つまり、これまで「桃山時代の茶陶」と崇められ、憧れの的となっていた国焼茶陶のほとんどが、実は豊臣秀吉の死後で、関ヶ原の合戦後で、江戸幕府の成立以降に作られた「江戸初期の茶陶」だったのだ。
そして、本当の桃山茶陶は、冒頭の通り、霧に包まれた「幻の存在」となってしまった。
その衝撃たるや、天地がひっくり返るレベルのインパクトである。
なんせ、「桃山茶陶」の筈なのに、信長も、秀吉も、利休も居ない、『江戸時代』の作品なのだから。それでは、当時を生きた彼らが桃山茶陶なんて使っていなくて当たり前だし、使えるはずがない。
ただの茶番だったのだ。
この問題からは、博物館や美術館に収まっている名品ですら、逃れられないだろう。下手をすれば、陳列品の全てが「江戸時代の作品」になってしまう館もあるのではないか。
しかし、美術史や文化史だけが、この歴然とした事実を見て見ぬ降りをしても、もはやネットワークが発達し、情報が行き渡ってしまった現代では通用しないのだ。
当然、古美術業界にもこの影響は波及している。憧れの桃山茶陶だと信じて、大金を叩いた蒐集家にとっては痛恨の極みである。よりによって相場の高い品だけに、そのショックは計り知れない。
しかし一方で、それが古美術・骨董の本当の面白さでもあるのだ。これらの新事実によって、また新しいロマンやチャンスが生まれてくるからだ。
そう、と言うことは、これまで蔑ろにされてきた伝世品の中に、「本当の桃山茶陶」が隠れ潜んでいるのだ。
これぞまさしく、乱世の戦国時代が、現代に残してくれた『下剋上』のチャンスであろう。
信長・秀吉が、天下統一を目指して国中を駆け巡り、千利休が、侘び茶を完成させた安土・桃山時代。彼らは、一体どんな備前焼を使って、茶の湯に興じていたのだろうか。その答えが見つかっていないのならば、ぜひ当美術館で探ってみたいと思う。またそれに伴い、古備前焼の時代区分を整理整頓し、本当に正しい年代鑑定を明らかにしたい。
『幻の桃山茶陶を発見せよ!』
まもなく、館長指令が発令されたのは言うまでもない。
当美術館の使命は、「ワクワクを追い求める美術館」だ。人間は、未知なるものほど知りたくなる。その欲求に素直に、そして真摯に向かい合う人生こそが素晴らしい。
私たちの数寄心が、読者のみなさんにとって、一興と一助になれば幸いである。
令和3年初夏 古陶磁鑑定美術館 館長 (「古備前焼の年代鑑定」あらすじより)