【天下一茶陶会 慶長】
“織部ト云ウ、茶湯ノ名人”
慶長四年(1599年)2月27日。
博多から上京中の商人、神谷宗湛の元に一枚の書状が届いた。
「先日は留守中だったため、お出迎えできずに大変申し訳ない。明日茶の湯を催すのでお越しいただきたい。」
それは久しぶりの再会を懐かしむ茶友からの手紙であった。
手紙を読んだ宗湛は、その翌日の慶長四年(1599年)2月28日朝、凝碧亭と名付けられた茶室で催された茶の湯の会に出席した。
その会の出来事は、宗湛が残した伝記「宗湛日記」に記録が残されている。それを読むと、茶会で宗湛の印象に残ったのは、募る昔話ではなく、お茶を出す際に使われた「斬新な茶碗」だったことが窺い知れよう。
その斬新な茶碗は、焼き上げる途中で熱に負けて歪んでしまった言わば出来そこないの茶碗であったが、宗湛はそれを「へうげもの(ひょうげもの)」と称して、驚きと面白さを表現したのだ。
博多の地方商人の宗湛は、この目新しい茶碗を見て、秀吉時代に流通した茶道具でなく、新しい流行が都で発生していたことに気付かされただろう。
茶会が催されたのは、秀吉の死によって朝鮮出兵が終わり、関ヶ原の合戦が起こるまでの戦乱が一時的に落ち着いた頃である。
そして、その茶碗を使ったのが、茶会の亭主で時の天下一茶人「古田織部」であった。
古田織部は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた戦国大名だ。
武将としてはさほど有名な人物ではないが、茶の湯の世界では、千利休の弟子の中でも利休七哲に数えられる人物で、特に利休亡き後の慶長年間は「天下一の名人」と称される程の実力者であった。
織部の茶の湯は、当時の茶会記に記録が残されているため、それらの一次資料から様子を伺うことができるが、冒頭の「ヘウゲモノ(※ひょうきん)茶碗」こそ、それを端的に象徴していると言えるだろう。
具体的には、慶長四年(1599年)のヘウゲモノ茶碗を皮切りに、同年に懐石道具に「瀬戸皿」を初めて使い始め、その二年後の慶長六年(1601年)には「備前三角花入」・「備前香合」・「足付の瀬戸四方皿」を使うなど、それまでの茶会記には見られなかった道具を次々に採用したのだ。
更に慶長七~八年(1602-1603年)には、「今黒やきの茶碗(産地不詳)」や「とやまの黒茶碗」や「きの国やきの水指」や「からつ焼の水指」など、飽くなき探求心の赴くままに新しい窯業地の焼き物を取り入れている。
千利休や豊臣秀吉らが活躍した天正年間後半頃の茶の湯では、室町期から使われていた伝統的な茶道具を使うことが多かったのだが、慶長期の織部の茶会記には、そんな中に突如として唐津焼や美濃焼(黄瀬戸・志野・織部)や楽焼(京焼)などの国産施釉陶器が喧しく登場してきたのだ。
そんな慶長時代の茶の湯ブームをけん引した代表人物こそ「古田織部」だったのだろう。
では、そんな慶長期の茶の湯とは一体どんなものなのだろうか?
当時の焼き物からその真実に迫ってみよう。
【慶長時代の茶の湯】
慶長時代とは、1596年から1615年までの約20年間のことである。
第二次朝鮮出兵である慶長の役から始まったこの20年間は、天下人豊臣秀吉の死去や、天下分け目の関ヶ原合戦、そして徳川家康による江戸幕府の成立から、大阪の陣での豊臣家の滅亡まで、実に日本の歴史上でも激動中の激動の時代であった。
戦国時代の茶の湯といえば、千利休や織田信長や豊臣秀吉のイメージが第一に浮かぶことだろう。
しかし、実際の戦国時代の茶の湯文化は、室町時代の後半から江戸時代の初期頃まで、実に足掛け100年間以上にも亘って続いた長い文化であった。
そのため、それら過程でいくつかの栄枯盛衰を経て、様式や流行が移り変わっていたのだ。
そして中でもこの慶長年間に大流行したのが、いわゆる桃山茶陶と呼ばれる“歪んだ茶陶”の作陶ブームだった。
戦国時代の茶道具と言えば、小さな茶壺が一国よりも価値があった時代である。
信長や秀吉や利休が活躍した天正年間(1573-1592年)は、主に中国や東南アジア諸国等から伝来した「唐物」や「南蛮物」などの舶来品や、備前焼や瀬戸焼や信楽焼といった古来からの茶道具が重宝された時代であった。
それが慶長期(朝鮮出兵後1598年~)になると、自分たちで好みの茶道具を作陶したり、市場から優れた茶道具を選び出したりして、それを茶会で披露し合うブームへと変遷していたのだ。
冒頭で紹介した神谷宗湛が驚嘆した「へうげもの茶碗」が、その最初期の例である。
その他にも、当時の流行の様子が伺える織部の逸話が残っているので、いくつか紹介しよう。
一つ目は、慶長7~8年(1602-1603年)頃に催された織部の茶会に、黒田官兵衛(如水)と鍋島藩主鍋島勝茂が出席した際のエピソードだ。
その茶会で織部は、勝茂の国内(佐賀藩)で京都の陶工が焼いた唐津焼を披露したのだが、それが勝茂の許可なく勝手に焼かれたものだと分かると、勝茂は茶会後に自国の家老に「勝手に焼かせるな」と手紙を送っていたのである。
この年代は、前述の茶会記で織部が唐津焼の水指を始めて使い始めた時期とも概ね一致している。
それらの一次資料から、唐津焼の茶道具はその頃から本格的に焼かれ始めたと推測できるのだが、それを織部は京陶工らを通じていち早く入手していたのだから、その収集力には脱帽である。
藩主すら知らない焼き物を、藩主よりも先に、それも京都にいながら手に入れてしまうのだから、収集力と言うより、織部に使ってもらうために焼かれた唐津焼だったのかもしれない。
またこの逸話からは、黒田官兵衛級の大名連中ですら「目新しい焼き物」に夢中だった様子が伺えよう。
二つ目も、織部と唐津焼にまつわるエピソードである。
織部は、慶長十一年(1606年)にも唐津焼の水指を使ったのだが、その水指を「今朝町で見つけた」と記録しているのである。
それも2回も。
1600年代前半の京都(伏見)では、町中で唐津焼などの茶道具が売られていたのである。
それ程、国産茶陶の人気は高まっていたのだ。
詳しくは後述するが、京都の三条付近では、この流行を裏付けるかの如く当時の焼き物が大量に出土した。
その莫大な量から鑑みれば、当時の茶陶ブームの盛り上がり具合に圧倒されると共に、慶長期には一般の町人や商人たちにまで茶の湯の文化が浸透していた様子が伺えるだろう。
そんな熱狂の中で、その中の一つを織部が拾い上げ茶の湯に採用したのだ。
この姿は、現代の青物市で好みの茶道具を買い求め、その道具で茶を楽しむ好々爺の姿とオーバーラップする。
数寄者の随一、織部63歳の時であった。
ちなみに織部は、慶長十三年(1608年)に唐津焼の茶碗に、唐津焼の水指に、唐津焼の花入を合わせる「オール唐津焼」の茶会を開催している。
それほど唐津焼に魅入られていたことが分かるだろう。
これらの逸話は織部の茶陶の好みだけでなく、俯瞰的に見ることで慶長期の茶陶ブームの全容まで垣間見れるから面白い。
きっと織部と同じように当時の茶人たちも、次々に登場した目新しい国産茶陶を探し求めて、京の街中を闊歩していたことだろう。
最期のエピソードは、織部と薩摩焼に関する逸話を紹介しよう。
慶長十一年(1606年)に織部が、奈良の最福院に薩摩焼の茶入を送った時の逸話だが、その茶入に「古織部」の署名が記されていたため、織部にそのことを最福院が質問したところ、その署名は薩摩藩主の島津家久氏が勝手に記したもので、自分(織部)のサインではないと答えた話である。
また織部は、その後の慶長十七年(1612年)にも、茶の湯の弟子の上田宗箇を薩摩に遣わして茶入を焼かせていたことが分かっている。
しかし、その時の茶入の出来が良くなかったようで「釉薬は黒色を多く使用するのが良い。背は高くして底は縮まない方が良い。」などと助言した書が残っている。
これらの逸話からは、織部と薩摩焼との深い関わりが分かると共に、織部が自分の好みの茶道具を窯業地に指導していた様子まで窺い知れよう。
実際に織部が当時の茶陶全体にどれ程関与していたのかは知る由もないが、織部が天下一茶人と呼ばれていた慶長時代に、大名や藩主までをも巻き込んだ国産の茶陶ブームが巻き起こっていたことは間違いない事実なのだ。
戦国時代の印象と言えば血生臭いエピソードをイメージしがちだが、当時を生きた彼らが命を懸けていたのは、命の取り合いでなく茶陶の奪い合いだったのである。
なおより詳しい茶会記の内容については、当館ホームページ内の「茶会記検証」頁で解説しているので、興味がある方はぜひご覧いただきたい。
また当館以外の専門家による分析や調査レポート等も、インターネット上で無料で多く公開されているので、それらも参考にして欲しい。
ここでは以下に茶会記の簡単な見方のみ解説して、詳細は割愛させていただく。
・【茶会記を読み解くコツ】
茶会記とは、茶の湯の会で使用された茶道具や掛け軸や活け花や料理などの様子を記録した日記で、会の主催者や参加者が書き残したものである。具体的には「〇年〇月〇日に誰と誰が茶会を開いた。使用した茶碗は瀬戸の茶碗で、水指・建水は備前、花入は古銅・・・」のような内容が記されている。
そんな茶会記を読むコツは、当時の茶会が「道具披露の場」だったことを踏まえた上で、当時「使われていた茶道具」を広く俯瞰的に読み解く姿勢が大事である。なぜなら時代が同じであれば、記録した茶人や参加者や開催場所が違っていても、使われた茶道具や会の様式に明らかな共通点が見いだせるからだ。
例えば備前焼では、織田信長が台頭する天正元年(1573年)頃から建水での使用が茶会記に爆発的に増え始め、秀吉が天下を統一して北野大茶の湯を開催した天正15年(1587年)頃には、ほとんど使用されなくなることが分かる。そしてその後は、建水でなく主に水指や花入として採用されていき、それが慶長年間に入って、香合や茶入等へ広がっていったことが伺えるのだ。
このように茶会記の中の一つの焼き物だけを追いかけても、その隆盛や用途の違いを把握できるのである。
ちなみに、唐津焼や美濃焼(志野・黄瀬戸・織部など)や楽(京)焼などの施釉陶器は、慶長以前の茶会記にはほぼゼロと言っていいほど出てこない。それが出てくるのは、慶長以降である。
茶道具には、備前や信楽の壺などのように昔から存在していたモノを「見立て」て使うケースもあるが、特に新しい窯業地の焼き物の場合は、藩主か大名クラスの茶人が、茶会で披露するためにその直前に特注品として焼かせたと想定するのが基本である。
そもそもそんな投資ができる財力と権力を持っていなければ実現できない時点で、ほとんど役者が限定されてしまうからだ。
そんな訳で、茶会記に焼き物が出現した時期が意味することは、その焼き物が焼かれた時期を概ね表していると言えるのである。
詳しくは後述するが、その視点で美濃や唐津の茶陶を鑑みると、それらが本格的に焼かれ始めたのは、やはり慶長時代以降と判断できよう。
このように茶会記の内容を把握しているだけでも、安土桃山時代に実際に使われていた茶道具を、きちんと鑑定できるようになるのだ。
【慶長時代の出土品】
では次は、実際にその当時に使われていた「実物」を分析して、慶長時代の茶の湯の姿を炙り出してみよう。
結論から申し上げると、実は現代では慶長時代に使われていた、もしくは作られたと想定できる陶磁器を、始まりから終わりまで“はっきり”と特定できてしまう。
この事実を、特に美術界や茶道界こそ有耶無耶にしているようだが、それもいよいよ隠し切れなくなっているから、業界は近いうちに歴史認識の大幅な修正を余儀なくされることだろう。
なぜなら前述した一時記録の「茶会記」と、これから紹介する「出土品」と、世の中に残る「伝来品」とを照らし合わせれば、その事実が誰にでも証明できてしまうからだ。
それでは実際に、慶長期の陶磁器が出土した「大阪」と「京都」の埋没品を例にして検証してみよう。
「大阪城」は、築城や、改築や、焼失年代が明らかな城である。
そのためその各地層から発掘された焼き物を調査すれば、それぞれの地層の時代に存在した器が推測できるのだ。
また「京都の町中」から出土する焼き物の中には、埋没地の所有者や、一緒に掘り出された他の埋蔵物や、それらの出土状況から、使われた年代や捨てられた年代が推し量れる品がある。
今回はそれらを参考に、慶長期の焼き物を特定していく。
・「大阪城跡」の出土品
大阪城は、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に築城を開始した城である。
秀吉が死去直前の1598年(慶長3年)には、跡継ぎの秀頼のために城を改築。最終的に1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で焼失した経緯がある。
その大阪城跡からは当時の焼き物が大量に出土するが、先に述べたように築城、改築、焼失時の各地層がそれぞれ分類できるため、各地層ごとの発掘品の年代が判別できるのだ。
その詳細が「大阪城豊臣石垣公開プロジェクト」内のコラムで分かりやすく解説されているので、以下にその部分を引用して紹介させていただこう。
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大阪城など近世遺跡の発掘調査が行われるようになる以前は、これらの(大阪城から出土する)焼物の多くは秀吉が大阪城を築き始めた天正11年頃には焼かれてると考えられていました。しかし、発掘調査の結果、古い地層から出土するものと、1615年の大坂夏の陣の地層から出土するものは分類できることが分かってきました。
秀吉は慶長3年(1598年)に伏見城で亡くなりますが、死の直前、大阪城を秀頼の居城とするため城を大きく作り替える大規模な工事を命じています。この工事の痕跡は大阪城跡の発掘調査で確認され、唐津や志野、織部などは慶長3年の工事後の地層から出土します。
このことは、誤解を恐れずに述べますと、秀吉は色鮮やかな桃山陶器の多くを知らなかった可能性が高いと考えられるのです。
「大阪城豊臣石垣公開プロジェクト 豊臣石垣コラム Vol.57より引用」
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このコラムでは、なんと今でも「桃山茶陶」の花形と間違えられている“志野焼・織部焼・唐津焼・楽焼”といった織部様式の施釉陶器が、秀吉の死後の地層からしか出土しない、と言及しているのだ。
つまり、現代の美術界において「桃山時代」とされている国産施釉陶器のほとんどは、発掘調査の結果では「慶長期でも秀吉の死後(≒江戸時代)」に該当してしまうのである。
ということは、多くの美術館や博物館でガラスケースの中に陳列されている「歪みの強い陶器」や、国宝に認定されている「白い釉薬の掛かった茶碗」は、歴史上の安土・桃山時代の茶陶では無く江戸時代の焼き物ということになってしまうのだ。
無情にも発掘調査は、その真実を追認してしまったのである。
重ねて申し上げるが、日本の国立博物館や著名な美術館・博物館までもが、これらの事実から目を背け続けている。
もし彼らがそれらの事実を知りながら、歴史を偽ってまで自分たちのコレクションを「自慢」したいだけなのならば、それは日本の歴史に対する冒とく行為であり、同時に日本に対する冒とく行為ではないだろうか?
日本の歴史文化の真実を捻じ曲げてまで自分の利益を優先すべきかどうかは、当事者自身がよく考えるべきだろう。
それは兎も角、良くも悪くも大阪城の出土品を分析すれば、秀吉存命期の「本物の桃山茶陶」とそれ以降の「慶長期の茶陶」とを分類できるのだ。
・「京都三条せと物や町」の出土品
次に「京都三条せと物や町」の出土品を紹介しよう。三条せと物や町は、京都の三条付近に慶長年間から寛永年間頃(1596年~1644年)頃に存在した町である。
主に焼き物を扱う商店が周辺に集まっていたことから「せと物や町」の名称が付いたと考えられているが、その近辺から出土するのが、前述の大阪城の出土品で紹介した「唐津・美濃・志野・織部」等の焼き物なのである。
その詳しい解説は、京都市文化市民局・文化芸術都市推進室・文化財保護課発行の「三条せと物や町」という図録資料に、分かりやすく紹介されているので、一部を以下に引用させていただこう。
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昭和62年度に中京区三条通負講麩屋町東入弁慶石町の発掘調査で出土した「桃山茶陶」である。弁慶石町は三条通に面し、中之町の東に接している。
(・・・中略・・・)
出土品の特徴は、信楽、備前産の焼締陶器の割合が高いことである。
(・・・中略・・・)
廃棄される年代は、共伴する土師器皿の年代観と、慶長後半頃には出現する美濃の織部、慶長十九年(1614)開窯の高取内ヶ磯窯の製品を含まないことから、慶長年間(1596~1615)後半に位置付けられる。
「京都市文化財ブックス 第30集 三条せと物や町 P7」から引用
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またその近辺でも、さらに・・・
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平成元年、中京区三条通柳馬場東入中之町の共同住宅建設に伴う立会調査で多量の「桃山茶陶」が出土した。
(・・・中略・・・)
出土品の特徴は、美濃産の施釉陶器が全体の8割を占めることである。黄瀬戸、瀬戸黒のほか志野、鼠志野、織部(織部黒・青織部・鳴海織部・赤織部・黒織部・総織部・志野織部)が多数含まれており、他産地の製品を模した美濃伊賀、美濃唐津も認められる。
(・・・中略・・・)
土師器には、灰器として伝世している長次郎作のものと同型の焙烙が出土しているほか、皿も出土しており、その年代観から、本品がほぼ元和年間(1615~24)に廃棄されたものと考えられる。
「京都市文化財ブックス 第30集 三条せと物や町 P25」から引用
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すなわち、三条せと物や町近辺において、江戸時代初期頃の焼き物が大量に出土したのだが、その中でも「弁慶石町」から出土した茶陶が「慶長年間の後半」に該当し、「中之町」から出土した茶陶がその直後の「元和年間」に該当することが判明した、というのである。
さらに、その二か所から出土した焼き物には、それぞれ産地や姿形に大きな違いがあったため、慶長時代の終わりを境目に茶陶の流行が変化していったたことが伺えるのだ。
つまり、これらの出土品を参考にすれば「慶長期の終わりまで」の茶陶を区分できるのである。
これらの出土品は、インターネット上でも公開画像が見られるので、ぜひ参考にご覧いただきたい。
そして、前述の「大阪城」と「せと物や町」との出土品を総合的に参考にすれば、「慶長年間」の最初から最後までに流通・使用された焼き物が特定できるのだ。
これで下準備は整った。
次はいよいよ、慶長時代の茶陶を完全に浮き彫りにしてしまおう。
※上例以外にも、堺遺跡、根来寺、その他戦国時代の遺跡など、全国各地の出土品でも類似の共通点が確認出来るので、興味がある方はぜひ深堀して調査してみて欲しい。
【慶長時代の陶磁器】
それでは慶長時代(1596~1615年)の茶の湯で使われた「茶陶(焼き物)」について考察していこう。
これまでの内容をまとめると、慶長期の焼き物の要点は以下に集約できる。
・茶会記にへうげもの茶碗やさまざまな産地の焼き物が出現
・秀吉の死後の地層からはそれ以前とは異なる施釉陶器が出土
・その施釉陶器は唐津や美濃や京焼(楽焼)等のいわゆる桃山茶陶
・「織部好み・織部様式」と呼ばれる茶陶はこの期の特徴
・これまで桃山茶陶と考えられていた焼き物は秀吉の死後以降の作
すなわち慶長期の茶会記に突如として現れた「唐津・美濃・京焼(楽焼)」等の国産茶陶が、茶会記や出土品等を分析した結果、秀吉の死を境目に出現したことが判明したのだ。
その背景は、秀吉の死によって朝鮮出兵が終了したことで、現地から連れ帰って来た陶工達の技術が日本に流入したことと、その直後に勃発した関ヶ原合戦を経て戦国時代が終焉したことで、日本国内が安定したことが主な要因であろう。
その結果、茶の湯の焼き物に施釉陶器が登場したのである。
そしてまもなく爆発的な作陶ブームが巻き起こったのだ。
その詳細を京都三条の出土品の推移から鑑みると、ブームの初期は焼き締め陶器が、中期以降は施釉陶器が流行したことが伺えよう。
新しい茶陶の意匠性やデザインは、当時の天下一茶人(名人)古田織部の美意識・価値観が影響したと考えられる。
これが慶長時代の茶陶の特徴と、その流行の正体なのだ。
つまり、秀吉が生きていた時代とそれ以降の時代では、茶の湯の文化は大きく変わったのである。
ということは、茶陶の名品を時代別で区分する場合、信長や秀吉や利休が生きていた安土・桃山時代と、この慶長期とは、明確に時代を分別して考えなければならないのだ。
今回の天下一茶陶会が「慶長期」に限定して開催されている理由もそれに起因している。
【名品の条件】
茶道具として崇められる名品とは、どんな品なのだろうか?
ここで前回の天下一茶陶会開幕編で紹介した条件を再確認してみよう。
①茶の湯の流行期(今回は慶長期)に作られた/使われた道具であること
②当該焼き物の使用が茶会記等の一時資料で確認できること
③茶陶の年代が一時資料や出土品から判別(鑑定)できること
④類似品や同種同形手と比較して特別注文品(真の一点物)であること
⑤+α 共箱や時代箱書や伝来等の付属があれば尚良し
ということであった。
①~③は、慶長時代に使われた茶道具だと特定(鑑定)するために必要な条件で、④~⑤はその中でも「特注品・一点物・別格」であることを証するための条件である。
つまり、天下一茶陶会に名品として出品できる茶陶は、①~③をクリアしていることは当然だが、それに加えて④~⑤の要素でも、特に秀でている必要があるのだ。
これは考えてみれば当たり前の話だが、一点物の特注品はオーダーメイドで作られるため、類品があってはおかしいし、もしそんな類品を他人が使っていたことが知れたら、作らせた大名や天下人は怒り狂ってしまうだろう。
分かりやすく言えば、天下一の名品には「類似品はあってはいけない」のである。
この事例を古備前焼のケースで説明すれば、古備前の愛好家の間で最上級レベルに重宝されている「矢筈口水指」という水指があるが、その類似品は、前述の京都三条のせと物や町から大量に出土するのである。
また矢筈口水指と同じタイプの伝来品が、全国各地の美術館や博物館にも多く残っているのだ。
その理由こそ、矢筈口水指が明らかに量産品だからであり、用途としては大名や天下人向けではなく、一般の茶人向けの流通商品だったからだろう。
つまり備前の矢筈口水指は、厳密には安土桃山時代の桃山茶陶ではなく、慶長期に一般向けの商用目的で作られた量産品の焼き締め茶陶なのである(もちろんプロトタイプのような極一部の例外はあるだろうが)。
なので、それらの古備前水指を展示する際に、慶長期の茶の湯の流行品として紹介するなら正解と言えるが、それを千利休や信長や秀吉が活躍した桃山時代の特別な桃山茶陶などという表現で紹介していたとすれば、それは虚偽の事実に基づく、歴史を捻じ曲げる行為になってしまわないだろうか?
参照資料引用元:三条せと物や町-桃山茶陶- / 京都市文化財ブックス 第30集
またそれと同じことが言えるのが、せと物や町から大量に出土する「織部様式の茶碗類」や「志野・織部向付群」である(前掲画像参照/三条せと物や町より)。
これらも掛かれているデザインが多少違うだけで、類似品が山ほど存在しているので、一目で量産品だと判断できるのだ。
それを一点物の桃山茶陶という認識で高額で買ってしまったり、戦国時代の歴史的名品かのように崇め奉ったりするのは、蒐集家としては褒められた話ではない。
ましてや美術館・博物館レベルでそのようなことをやっているならば、もはや目も当てられない話である。
そういう視点で全国の館を見てみると、また面白い一面が垣間見れよう。
【慶長期の最上級品】
それでは話を本題に戻して、いよいよ慶長期の中でどの茶陶が天下一なのかを決定していこう。
その候補は、これまで見てきた数々の証拠資料や当時の流行の推移から、①老舗産地の伝統作品か、②新窯地の革新的作品かのどちらかに絞れる。
すなわち①の伝統作品とは、備前・信楽・瀬戸に代表される焼き締め陶器で、②の革新作品とは、唐津・美濃・京(楽)に代表される施釉陶器である。
なぜなら慶長時代の20年間でも、主に前半は焼き締め陶が流行し、後半になるに従って施釉陶器が流行し始めたことが分かったからだ。
つまり、伝統か、革新か?
茶陶ブームの背景では、同時に焼き物産地の激しい攻防戦が繰り広げられていたのである。
今回の天下一茶陶会は第一回目であるから、その中でも初代王者に相応しい作品を見つけ出すのが使命である。
さらに我々は、安土・桃山時代の焼き締め陶の研究調査機関であるから、特に①伝統分野の茶陶では負けられない自負がある。
なので今回は、①の伝統的な作品の中から最初の王者を決定させていただこう。
そうと決まれば、ここからが当館の研究調査能力の見せ所だ。
しかし、相手はなんせ天下一の茶陶である。おいそれと軽々しく頂点を決める訳にはいかない。
これまでに発行された図録や発掘調査資料等を改めて丁寧に見直しつつ、同時に全国に繋がる目利きネットワークを駆使して名品を精査し続けたこと、約6か月・・・。
ついに、天下一候補を2点に絞り込むことができた。
その作品たちは、どちらも慶長期を代表する焼き締め陶と言って過言のない名品である。実際にどちらも手にして見ると、その中の一つが栄冠に輝けないことの方が信じられない位だ。
しかし天下一になるには、残酷な勝ち抜き戦を生き残らねばならないのである。
【どちらが天下一?】
さあ、お待ちかねの舞台が整ったので、慶長年間の天下一の茶陶を決めていこう。
ここまで来ればもはや前置きは不要。
早速一つ目の天下一候補から紹介しよう。
一品目はこちらの名品である。
「東~、古備前~、平水指~。」
水指の中でも器形が平たく口径が大きいものは「平水指」と呼ばれる。
広く浅い口からたっぷりと注がれた水面が望めるため、涼しさを感じさせてくれることから、現代では主に暑い夏の道具組みに使われることが多い水指である。
この平水指には、茶会に招かれた古の客人によって「鏡餅」と銘が付けられている。いつかの正月に催された茶会で使われ、その際に数寄者の目に留まったのだろう。
備前焼の平水指は、江戸時代前期(1655年)の金森宗和の茶会で使われた水指に「水指口広古備前」とあることから、すでに江戸前期には「古備前」と呼ばれていた時代の茶陶であると判断できる。
江戸時代前期(寛永文化期)よりも前の時代とは、まさに~慶長期のことである。
さらにこのタイプの平水指は、ほぼ同タイプの逸品が表千家不審庵にも「元伯(千)宗旦所持 平水指」として伝来している。
それらのことから、宗旦が生きた1578年~1658年の間には使用されていたと追認できる上に、三千家の祖である宗旦好みの逸品と肩を並べる程の名品と言えるだろう。
またこの作品がただの平水指でないことは、作品の焼け具合からも伺える。
すなわち、この器の底と腰には、作品の焼成の際に重ねて焼かれた円跡が残っているから、何かの上に乗せられていたことが分かるのだが、器の上側には燃料の灰が“胡麻”として降りかかっているため、これが積み上げられた作品群の最上段に置かれていたと判断できるのだ。
重ね焼きで作品を焼成する場合、その最上段に置かれた作品は、通常その内で最高級品である。
なぜなら、最上段で焼ける作品数がそれ以外と比べて格段に少ない上に、焼け具合(焼成景色)も自然任せであるから、思ったように品物が作れないからだ。
つまり、この名品は意図して作れた名品ではなく、自然の力に恵まれて誕生した、まさに時代が生んだ逸品なのである。
これこそが現代の技術をもってしても当時の名品を再現できない主要因だろう。
当時の文化や流行の盛り上がり具合やムードまでも再現することはもはや不可能である。
我々にできることは、残された名品にただ当時の思いを馳せるだけであろう。
でも、その時間が悠久であり、数寄の醍醐味なのである。
どうぞしばらくは時を忘れて、戦国茶の湯の息吹をご堪能あれ・・・。
古備前 平水指
それではその興奮が冷めやらぬままに、二つ目の天下一候補を紹介しよう。
「西~、古備前~、透し花籠~。」
次は、意匠性が豊かな花籠の登場である。
参照資料引用元:三条せと物や町-桃山茶陶- / 京都市文化財ブックス 第30集
外見上を見るだけでも、古備前焼の茶陶では他に類例を見ない透かし彫りの意匠性で、さらにそれを花籠に見立て、削り込めるギリギリの極限まで技巧を凝らしていることが分かるだろう。
素朴な焼き締め陶と言われる備前焼なのに、実に優雅で美しい作品だ。
この作品が慶長時代の作品であることは、同形の器が「三条せと物や町の弁慶石町」から出土する点から伺える。
実際に証拠を実見してもらった方が分かりやすいため、その資料を引用させていただいた。
出土品は、町人用の流通品・量産品であるため、彫り込みの意匠性やデザイン面では名品とは大きく異なるが、半筒型の外形やサイズ感はほとんど同じものだと分かることだろう。
この花籠はそれらの器を参考に、別注品として特別に誂えられた品なのだ。
そして、この作品の特長は、とにかくこの器が「オンリーワン」の特注品である点に尽きる。
作品の正面や背面だけでなく、裏面までにも彫刻を施す程の力の入れようである。
その中心に「太」と達筆に彫刻された印には、作者か注文主の誇り高き数寄心が感じられよう。
古備前焼は、作品の良し悪しや傷の大小に拘らなければ、日本の古美術市場では比較的見つけられる品種だが、このレベルの意匠性の茶陶は、どこをどう探しても類品すら見当たらない。
しかし、改めて作品をじっくりと眺め、そしてその世界観に触れていると、その理由がすっと腹に落ちてくる。
なぜなら、これこそが天下一なのだろう。
古備前 透かし彫り 花籠
【天下一茶陶を公開】
ということで、いよいよ天下一候補の二作品の中から、第一回天下一茶陶会の王座を決定しよう。
その名品こそ、こちらの逸品である!
「古備前 透かし彫り 花籠」
水指風の姿形に大胆に透かし彫りを施して花籠に見立てた茶陶であった。
一点目の平水指も大名級の名品であることに疑いの余地はないのだが、それでも類品や同形の作品がいくつか伝来しているから、唯一の名品とは言えない点がどうしても引っかかってしまった。
やはり、天下一には、類品はあってはいけないのである。
その点でも、二点目の花籠はダントツに突き抜けていた作品だった。
この名品は、必ず歴史に名を遺す文化財となるだろう。
この作品を見出すことができて当館は誇りに思っている。
この結果には、古備前焼の研究者や桃山茶陶の研究者の方々にも納得いただけるだろう。
それ程の名品に出会えたことに感謝である。
後は余計な修飾語など不要。
作品の魅力をたっぷりとご堪能いただき、締めとさせていただこう。