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  • 執筆者の写真古陶磁鑑定美術館

■茶会記を深読みするNo.2 「安土・桃山時代の茶会記の検証」

安土・桃山時代に大流行した「茶の湯」。

当初は、千利休や今井宗久、津田宗及らの堺衆を中心に行われていましたが、時の為政者である織田信長や豊臣秀吉が積極的に政治や戦の恩賞に利用したため、日本全国で一大ブームが巻き起こりました。


その熱狂は凄まじく、「茶入、茶椀一つで国が買えてしまう」ほど、茶道具の価値が高騰したそうです。具体的な逸話としては、織田信長を裏切った松永久秀に対して、久秀が所有する名物茶釜「古天明平蜘蛛」を差し出せば、裏切りを許すと諭した話が有名です。また信長は、当時茶の湯を許可制(御茶湯御政道)にしていましたので、茶の湯を開く許可を得るために、武功に励んだ武将も数多くいました。

このように、戦国時代の大名や武将にとって「茶の湯」はただの趣味嗜好ではなく、出世や品格までもを左右した大事な風習だったのです。

そんな当時の茶の湯の様子をうかがえる貴重な資料に「茶会記」があります。茶会記には、茶会が開催された日程や参加者の情報だけでなく、振る舞われた料理や、飾られた花、使用した茶道具の産地、姿形等が詳細まで記されています。


つまり、茶会記を読み解くことで、安土・桃山時代の茶の湯の実態が垣間見えるのです。そして、それらをベースに「伝来品や伝世品」を調査することで、正しい年代鑑定が行えるようになるのです。


そこで今回は、安土・桃山時代の中でも、その中心である「天正年間」の茶会記に焦点を当てて、主に天正期に使われた備前焼茶道具の真実を深堀してみたいと思います。

前回のコラムにて、天正年間に「備前建水」が大流行したことを紹介しましたが、今回はそれらをもっと詳しく見ていきます。


【天正年間の茶会記に記された備前焼茶道具】

このグラフは、天正年間の茶会記に登場した備前焼茶道具を表したものです。


1573年~1586年にかけて「建水」が急激な勢いで使用されていたことが分かります。また、1584年~1589年にかけて「水指」が使われ始めました。それ以外の器種では、「花入」「茶碗」「茶入」があります。


「茶入」は、1587年に千利休が使用した「銘布袋」茶入で、これが天正期で唯一の使用となっています。この布袋茶入は、白地に小紋の金欄が入った袋に入れて使われ、中身の素朴な備前焼茶入に対して、包装の袋が豪華過ぎていたことから、利休が「布袋」と名付けた逸話が有名です。当時は、中国産(唐物)の茶入を使うのが当たり前でしたから、利休は敢えてこのような「逸話」と合わせて、備前焼の茶入を採用したのでしょう。過去のしきたりや規律にこだわらない、利休の柔軟な茶の湯への姿勢が見て取れるストーリーです。


しかしこれらは、年に1-2回程度しか使用されていないため、やはり天正年間の備前焼茶道具と言えば、「建水と水指」と言えるでしょう。

なお千利休は、備前建水でも流行の先端を走っていたようです。


備前建水の一つに「棒の先」と呼ばれる姿形の器がありますが、それを茶会記上で最初に使用したのが利休でした。これが1566年のことですから、利休の流行を先取りする先見の明は、室町末期にはすでに頭角を現していたことが分かります。後に茶の湯の世界で天下を取るのは、必然だったのかもしれません。


また備前水指は、1584年から85年にかけて集中的に使用されていますが、ここで使われたのが「芋頭」と「括り袴」という水指でした。括り袴水指は、天王寺屋(津田)宗及所有の水指です。


当時の流行の特徴として面白いのが、ある器種の使用頻度が高まると、その後短期間で集中的に使用され、その流行の終焉後は、ほとんど使われなくなるといった傾向が見られる点です。このような傾向は、現代の〇〇ブームやファッションの流行りにおいても見られる特徴です。

おそらく、目新しい器や新作が茶会で披露されると、それを皆が欲しがり、そしてその器種がブームになっていったのでしょう。当時の盛り上がりや熱狂具合が、茶会記から伝わってきますね。


これが、天正年間の本当の茶の湯の姿なのです。



※茶会記のデータは、下記スプレッドシートにまとめてあります。スプレッドシートURLをクリック(もしくは添付)して、詳細をご覧ください。


※コラム「茶会記を深読みする」シリーズは、原則スプレッドシートの茶会記データを使って解説します。



■■■■■■ 桃山~江戸時代の茶会記分析データ(スプレッドシート) ■■■■■■■


URL:


※画像クリックでスプレッドシートが開きます。


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