千利休や豊臣秀吉が活躍した桃山時代(天正年間)が終焉し、関ヶ原の合戦を経て、徳川家康が権力を手中に収めた頃には、茶の湯のブームも大きく変わってきました。
当時の筆頭茶頭は、大名茶人の「古田織部」です。織部は、千利休の弟子で、豊臣秀吉の御伽衆の一人でもありました。また、二代将軍徳川秀忠の茶の湯指南役も任されています。織部は、千利休の茶の湯に「独自の創作」を加えて、武家流に進化させました。
具体的には、利休が好んだこれまでの小さな草庵茶室を大きくし、身分の差に合わせた立ち合いができるようにしたり、茶碗、茶入、水指、花入等の主要な茶道具だけでなく、茶会で出される懐石料理や、酒器に使われる器に新しい陶磁器を取り入れて工夫しています。
織部が好んだと言われる茶道具は、「織部好み」と言われ、その造形や意匠性が高く評価されています。すなわち、ぐにゃりと大きく歪んだフォルムや、力強い箆目の文様、左右非対称の造形、寂びれた焦げ肌など、これまで見られなかった斬新な作風です。
これらの意匠に織部本人がどこまで関わっていたかは定かではありませんが、これらの器を織部が茶会で好んで使ったことで、一大ブームになったことは間違いないでしょう。
そんな当時の茶の湯の様子をうかがえる貴重な資料に「茶会記」があります。茶会記には、茶会が開催された日程や参加者の情報だけでなく、振る舞われた料理や、飾られた花、使用した茶道具の産地、姿形等が詳細まで記されています。
つまり、茶会記を読み解くことで、安土・桃山時代の茶の湯の実態が垣間見えるのです。そして、それらをベースに「伝来品や伝世品」を調査することで、正しい年代鑑定が行えるようになるのです。
そこで今回は、古田織部やその弟子小堀遠州が活躍した「慶長年間~元禄年間」の茶会記に焦点を当てて、その当時使われた備前焼茶道具の真実を深堀してみたいと思います。
【①慶長年間の茶会記に記された備前焼茶道具】
①のグラフは、慶長年間の茶会記に登場した備前焼茶道具を表したものです。西暦は、1599年から1615年までの期間です(※始まりを秀吉没後に設定)。
このグラフを見ると、前の天正年間(文禄年間を含む)と比較して、備前焼茶道具の使用頻度が大きく減ってしまっていることが分かります。最も使われた年でも1599年の年間8回しか登場していません。この要因は、天正年間後半頃から、「建水」の使用頻度が大きく落ちてしまったのが主なものと考えられます。また、新たな器種でのブームを生み出せなかった(継続できなかった)ためでもあるでしょう。
すなわち1580年代後半は、千利休の創作茶の湯が全盛期を迎えていました。当時の利休は、建水に木の面桶を使うのを好んでいたため、それまで流行していた備前焼の建水から木桶の建水へとニーズが変わっていったのです。その後、1591年に利休が自刃し、古田織部の時代に変遷しましたが、この期も天正年間前半ほどのブームにはなりませんでした。
慶長年間の流行のけん引役である、古田織部の茶会で使われた備前焼茶道具を、一覧で詳しく見てみましょう。
【②古田織部の茶会記に記された備前焼茶道具】
②のグラフは、古田織部が自ら主催した茶会記に登場した備前焼茶道具を表したものです。また、スプレッドシートタブ【補足資料織部茶会記】には、備前焼以外の茶道具の利用状況を年代別・器種別でまとめてあります。
まずは、備前焼の使用状況です。茶会記を見る限りでは、前述①:慶長年間のグラフと概ね傾向は変わらず、特に織部が備前焼を多用していた様子は感じられません。ただし、器種別では、備前焼の香合を最初に使用した記録が残っていたり、筒や三角の花入を集中的に使ったりと、積極的な創意工夫の姿勢が見て取れます。また慶長初期頃までは、建水や水指に取り入れていたことも分かります。
しかし、慶長中期頃以降は、一切備前焼の茶道具が登場しなくなってしまいます。
この期は、唐津焼や瀬戸焼など、釉薬を施した瀟洒な器が茶会記に登場する頃と一致しています。そのため、この期の減少要因は、焼き物戦争と呼ばれた朝鮮出兵にて連れ帰ってきた多数の陶工たちによる、新しい窯業技術を使った目新しい焼き物にシェアを奪われてしまったと想定できます。
すなわち、「唐津」「高取」「萩」「美濃(志野・織部・瀬戸)」などの登場です。このような変遷の中で、安土・桃山時代から続いた備前焼茶道具の流行は、概ね慶長中期までで一旦終焉してしまったのでしょう。
【③寛永年間~元禄年間の茶会記に記された備前焼茶道具】
③のグラフは、元和年間~元禄年間の茶会記に登場した備前焼茶道具を表したものです。西暦は、1616年から1699年までの期間です。
この期は、慶長期に一世を風靡した古田織部が1615年の大阪夏の陣後に自刃して果てた後の時代で、織部の弟子の小堀遠州や金森宗和、片桐石州らを中心に、「きれいさび」と呼ばれる華美で雅な風潮が流行しました。
無釉の焼き締めが売りの備前焼もさすがにこの流行には抗えず、伊部手という塗り土手法を開発して対抗します。この成果が表れ始めたのが、1624年以降の寛永年間です。特に1639年は、備前焼水指の使用数が急増しました。これは、当時の徳川将軍家の茶道師範小堀遠州が集中的に使ったためです。
特徴的なのが、「ツルノアルノ」「ツルノナキノ」「ウハ口」「トヒ口」「四角」など、慶長年間までには見られなかった新しい姿形の表記が現れ始めた点です。遠州は、備前焼の指導もしたとの伝承がありますから、この頃、伊部手が出現したと考えられます。
当時の一時記録である茶会記を読み込むと、茶の湯の実態が手に取るように分かってしまいます。このコラム(テーマ:茶会記を深読みする)では、今後も茶会記に記載された内容の検証や考察記事を紹介していきますので、ぜひお楽しみにお待ちください。
※茶会記のデータは、下記スプレッドシートにまとめてあります。スプレッドシートURLをクリック(もしくは添付)して、詳細をご覧ください。
※コラム「茶会記を深読みする」シリーズは、原則スプレッドシートの茶会記データを使って解説します。
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