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  • 執筆者の写真古陶磁鑑定美術館

■茶会記を深読みするNo.6 「茶会記に残る備前焼花入」

備前焼は、安土・桃山時代の茶人に愛用された茶道具(茶器・茶陶)の一つです。

千利休や豊臣秀吉や織田信長が愛した茶の湯に使われた、安土・桃山時代の備前焼の花入の真実を検証します
安土・桃山時代~江戸時代の茶会記に登場した備前焼の花入とは

備前焼の「花入」は、1567年に千利休が始めて使ったことで、茶会記に登場しました。その次に現れるのが十年以上後の1578年ですので、当時の利休が、如何に新進気鋭であったのかが伺える一面です。すでにこの頃から、人と違う目新しい創意工夫を楽しんでいたのでしょう。


利休の他には、豊臣秀吉、明智光秀、黒田如水、古田織部、津田宗及、山上宗二、荒木村重、小堀遠州、金森宗和等・・・、多くの大名や茶人達が、茶会で備前焼の花入を使用しました。


そんな当時の茶の湯の様子をうかがえる貴重な資料が「茶会記」です。

茶会記には、茶会が開催された日程や参加者の情報だけでなく、振る舞われた料理や、飾られた花、使用した茶道具の産地、姿形等が詳細まで記されています。


つまり、茶会記を読み解くことで、当時の茶の湯の実態が垣間見えるのです。


そこで今回は、安土・桃山時代~江戸時代の茶会記に記された「花入」に焦点を当てて、流行の推移や姿形の変遷について、深堀りしてみたいと思います。


備前焼の桃山茶陶の真実を、備前焼の花入から考察してみましょう。



【茶会記に記された備前焼花入のデータ一覧】

【分類別】

この表(上)は、安土・桃山時代~江戸時代の茶会記に登場した花入の一覧データ(一部)です。また下表は、茶会記のデータを、姿形別、開催月時別に分類したものです。


※詳細は、画像クリックで茶会記元データ(スプレッドシート下部タブ:花入)でご覧いただけます。


まずは、表の見方から解説します。


上表の見方ですが、左項から順番に、茶会が開催された「西暦」「元号」「日付」「時間」「場所」を年代順に表示しています。「出典」は、この茶会記の出典元データのことで、「席主」は茶会の亭主を意味します。「形式」は、この茶会が出典者から見て、自会(席主)なのか、他会(客)なのかを表しています。

例えば、1580年天正8年12月21日の朝に京都で開かれた茶会では、亭主を明智光秀が務め、津田(天王寺屋)宗及が客として招かれています。そこで使われたのが「床ニ備前物之つちの花入」です。そして、その記録が天王寺屋会記(宗及の記録)に残っているという意味になります。なお「記述」の項目は、茶会記に記された花入に関する表記で、姿形や銘などが確認できます。


明智光秀が、床に備前焼の花入を飾った1580年は、前年に丹波平定を成し遂げ、信長からその丹波を領国として与えられた、まさにキャリアの絶頂期です。そんな光秀が選んだのが、素朴な焼け肌の「備前焼の槌花入」でした。織田信長の天下統一が目前に迫り、益々豪華豪勢を極めて派手になっていった時代とは裏腹に、侘びた備前焼をチョイスしたのは、本能寺の変で主君を裏切った伏線だったのかもしれません。

備前焼の花入は、床でどんな会話を聞いていたのでしょうか。それを想像するだけでも、夢が広がる話ですね。


また下表は、茶会記のデータをそれぞれ姿形別、使用年月別、時間帯別で分類したものです。


このように、茶会記を見れば、花入の流行や形の推移だけでなく、当時の茶人の人間関係や、茶会の時期、時間帯、場所などの時代背景まで窺い知れるので、安土桃山~江戸時代にかけての茶の湯が、実際にどのように行われていたか、肌で感じることができるでしょう。


以下に、いくつか特徴的なものを紹介します。

まず、備前花入は、茶道具の中でも「花」が飾られるメイン級の道具だけあって、茶会記に「活けた花の種類や状況」が多く付記されている点です。


例えば、「備前筒ニ梅」「備前花入、薄色椿」「備前物花生ニあさかほ」「ヒセンツツニ水仙」「大平ノ方ノ脇ニ窓アリテ、此窓ニ備前筒掛テ、ウメ・水仙花入」などです。その他にも、「白玉・キク・ムメ・川骨・ツツシ・柳」の表記が見られます。


これらの詳しい表記から見ても、「花入」とそれに「活けた花」が、当時の茶の湯でとても注目されていたことが良く分かります。当時の伝承でも、利休と秀吉の「朝顔」の逸話や、「花上手」の織部と言った評が有名ですが、やはりそれだけ「花」は、茶の湯で重要な役割だったのです。

荒れ狂う戦場で、戦を繰り返していた当時の武将たちにとって、静かな茶室で眺める素朴な備前焼の花入と、それに活けられた花は、きっと心を落ち着かせ、癒しの効果をもたらしたことでしょう。


次に、花入の姿形の特徴ですが、安土・桃山時代~江戸時代の寛永年間までに使われた備前花入の形は、「筒」がほとんどで、それに「瓶・細口」が僅かに含まれる程度であることが分かります。


もちろん一言で「筒」と言っても、水牛の角のようなホーン型のようなものから、水指型のような素朴な土の円筒形のものや、豪快な箆目文様や歪みが胴部に施された織部様式の掛け筒花入のようなものまで、幅広くありますが、基本的な形態が「筒」である点は、伝来品を見る上で参考になるでしょう。

最後に、1599年から1604年までの5年間の備前焼花入について考察します。この期間は、前年に秀吉が没して朝鮮出兵が終結し、1600年関ヶ原合戦を経て徳川の治世に変遷した時代で、まさに焼き物に大革命が起きた時期だからです。

すなわち、朝鮮出兵によって朝鮮半島から連れてきた現地の陶工たちに新しい窯場を次々と築かせ、大名や茶人好みの茶器を焼かせたのが、この慶長初期なのです。朝鮮陶工は、鍋島直茂が連れ帰った「李三平」や、加藤清正が連れ帰った「尊楷」、黒田長政が連れ帰った「高取八山」などが有名です。これらの新しい技術によって、これまでの日本の窯業の技術が一気に大きく発展、進化したのです。


そんな時期に、備前焼花入を愛用したのが「古田織部」と「黒田如水、黒田長政親子」でした。具体的には、古田織部は、1599年~1601年(自会記では1606年まで)に備前筒花入を使い、黒田如水は1602年に、長政は1604年に、それぞれ使っています。

黒田官兵衛は、引退後は長政に立場を譲り、茶人として余生を過ごしたと言います。その時に手掛けた焼物が、高取焼かもしれません。
筑前福岡藩始祖で利休の弟子「黒田官兵衛(如水)」

古田織部は、言うまでもなく、その当時の天下一茶頭です。また黒田氏は、関ヶ原合戦の功績によって福岡県に52万石の領地を獲得しますが、そのルーツは岡山県は福岡(現在の福岡の名前の由来)にありました。岡山県の焼き物は、もちろん「備前焼」です。

黒田長政は、関ヶ原合戦の功績で筑前藩主となった。元々岡山は福岡にゆかりがあった黒田氏は、備前焼とのかかわりも強く、それが高取焼にも影響を与えている。
初代筑前藩主 黒田官兵衛(如水)の息子長政

この時期に黒田氏は、新領地で「高取焼」という焼き物の開発に取り組んでおり、その初期頃の焼け肌や景色が「織部様式」や「備前焼」に類似しているのは、伝来品を見れば一目瞭然です。つまり、この茶陶革命の創成期に、焼き締め系茶道具の開発を担っていたのが、これらの勢力ではないでしょうか?


そして、その技術が、朝鮮唐津などの掛け分けの器へと引き継がれたのかもしれません。目の前に備前焼の花入が一つさえあれば、ここまで夢とロマンに浸れるのです。



※茶会記のデータは、下記スプレッドシートにまとめてあります。スプレッドシートURLをクリック(もしくは添付)して、詳細をご覧ください。


※コラム「茶会記を深読みする」シリーズは、原則スプレッドシートの茶会記データを使って解説します。



■■■■■■ 桃山~江戸時代の茶会記分析データ(スプレッドシート) ■■■■■■■


URL:


※画像クリックでスプレッドシートが開きます。


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