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執筆者の写真古陶磁鑑定美術館

■茶会記を深読みするNo.1「安土・桃山~江戸時代の茶の湯と備前焼」

安土・桃山時代から江戸時代にかけて、大流行した「茶の湯」。

古陶磁鑑定美術館は、古陶磁や古備前焼の年代鑑定を通じて日本の歴史遺産の継承と古美術品の調査・研究・保存を行う美術館です。
安土・桃山時代の茶会記から茶の湯の流行を読む

当初は、千利休や今井宗久、津田宗及らの堺衆を中心に行われていましたが、時の為政者である織田信長や豊臣秀吉が積極的に政治や戦の恩賞に利用したため、日本全国で一大ブームが巻き起こりました。


その熱狂は凄まじく、「茶入、茶椀一つで国が買えてしまう」ほど、茶道具の価値が高騰したそうです。具体的な逸話としては、織田信長の家臣滝川一益が、恩賞で領地よりも「珠光小茄子」と言う手のひらサイズの茶入を望んだ話が有名です。また、豊臣秀吉は、蒐集した名物を自慢するために、北野の大茶会にてコレクションを披露しました。

古備前焼の年代鑑定のことなら古陶磁鑑定美術館。古備前焼の鑑定、窯印の調査、安土桃山時代から江戸時代の茶の湯と茶道具の研究
安土桃山時代の茶の湯と備前焼

このように、戦国時代の大名や武将にとって「茶の湯」はただの趣味嗜好ではなく、出世や品格までもを左右した大事な風習だったのです。


そんな当時の茶の湯の様子をうかがえる貴重な資料に「茶会記」があります。茶会記には、茶会が開催された日程や参加者の情報だけでなく、振る舞われた料理や、飾られた花、使用した茶道具の産地、姿形等が詳細まで記されています。

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つまり、茶会記を読み解くことで、安土・桃山時代の茶の湯の実態が垣間見えるのです。そして、それらをベースに「伝来品や伝世品」を調査することで、正しい年代鑑定が行えるようになるのです。


このコラムでは、安土・桃山時代から江戸時代にかけて記された「茶会記」を解説していきます。「本当の備前焼桃山茶陶の真実」を、茶会記と共にお楽しみください。


【1549年から1699年までの茶会記に登場した備前焼茶道具のグラフ】

このグラフは、安土・桃山時代から江戸時代の元禄期までの茶会記に記載された「備前焼」を、年代別・器種別に分類したものです。


大きな特徴としては、天正年間(1573-1593年)に「建水」と「水指」が、そして寛永年間以降に「水指」が多用されたことが分かります。特に、天正年間の建水は、ほぼ備前焼の独壇場と言える程、圧倒的なシェアを誇っていました。


天正年間と言えば、織田信長が、足利義昭を京から追放して室町時代を滅ぼし(1573年)、そして本能寺の変で果て(1582年)、その後に豊臣秀吉が天下統一を果たすまで(1587年)がまるまる含まれている、戦国時代のど真ん中です。


そんな戦国時代のど真ん中の茶の湯で使われていた「備前建水」こそが、まさに「真の桃山茶陶」といっても過言ではないでしょう。

また、その後の慶長年間にかけては、備前焼茶道具の使用回数は大きく減ってしまっていることが分かります。この期は、いわゆる「織部様式」の時代ですが、この当時は、「美濃焼(瀬戸・志野・織部)」・「唐津焼」・「伊賀焼」・「高取焼」などの最先端の茶陶が次々と登場した時代であったから、素朴な無釉焼き締めの備前焼よりも、釉薬の掛かった瀟洒な目新しい陶器が好まれたのでしょう。


このように、茶会記を通して備前焼茶道具の変遷を見てみると、当時の茶の湯の流行や実際に使われた様子が伺えるのです。


これらの知識は、古陶磁の年代鑑定に活用できるだけでなく、当時の文化や数寄の実態を知る上でも貴重な情報になりますので、ぜひ以下のスプレッドシートにて、茶の湯の真実を垣間見て見ましょう。



※茶会記データの詳細は、下記スプレッドシートにまとめてあります。スプレッドシートURLをクリック(もしくは添付)して、ご覧ください。


※コラム「茶会記を深読みする」シリーズは、原則スプレッドシートの茶会記データを使って解説しています。



■■■■■■ 桃山~江戸時代の茶会記分析データ(スプレッドシート) ■■■■■■■


URL:


※画像クリックでスプレッドシートが開きます。


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